60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

絶賛梱包中!


1930年頃の新京阪鉄道天神橋駅。wikipedia天神橋筋六丁目駅」の項より。
原典は、改造社「日本地理大系 第7巻」。もうすぐタワーマンションとか。


昨日は、関西大学天六キャンパスでの研究会へ。
天六は久しぶり。駅ビル以外は、あまり変化なし。銭湯も健在。
モバイル・ジャーナリズムの可能性と課題といったテーマで
在阪局のアナウンサーの方(学位を取得し、某大非常勤講師も)のお話。
内容としてはモバイルの技術を、どうテレビ報道の現場が
取り込もうとしているか(しきれていないか)といった観点から。


テレビ・ジャーナリズムからモバイル・ジャーナリズムへ
といった完全移行系の過激なお話ではなく、まぁ順当な議論かな
と思いつつ、ちょっと肩透かしにあった感もなくはない
(って、これはこっちのヘンな思い込みゆえの感想)。


今月号の『月刊民放』に書かせていただいた文章のウラの意図としては
もう民放にジャーナリズムとか報道の機能・役割を、
視聴者は、さらに社会は求めてないんじゃないの?
というのがあった。でも、話ややこしくなるので、
そんなこと発言せずに、おとなしく拝聴。懇親会は失礼して、早めに帰宅。
まぁ、放送法で「公共の…」といってる以上はそうなのかも知れないけど
法律は時代とともに変わっていく。電波の希少性という論拠が怪しい今
民放の公共性については再考されるべきだと思う。
視聴率を度外視して、ニュース報道や情報伝達に努めることを
その収益の構造上、民放に期待するのはやはり無理がある。


官営(ないし国営)放送があるのなら、民放(の在野性)も意味あるんだろうが
一方が公共放送なのだから、私営放送(他の企業と同じように一営利企業)として、
完全に市場競争原理の中に投げ込まれるべきなのではないだろうか。
(実質的には、視聴率競争=広告費シェア競争の中にあるのだから)
中途半端は、よくないように思う。ジャーナリズムは、
そのジャーナリズム性にお金(購読料)を払ってもいいという人のいる新聞にお任せして、
民放は系列ないし協力関係にある新聞社から得たニュースを
映像・音声化することに徹してみては…、などと思っている。
(受信料収入を得ている某局は別、テレビ・ジャーナリズム自体を否定する気は毛頭ない)
かつて、「民間放送」という言い方が定着するまでのプロセスには、
「広告放送」という呼称も、現民放に対しては存在していた。


いや放送ジャーナリズムがNHKだけになった場合、戦前のようなことが…
という危惧もわかるのだが、やはりメディア環境が往時とは違う。
民放ジャーナリズムが、現状ではキー局中心の集権的なツリー構造の中で動いている以上
またスポンサーシップと無縁ではありえない以上、リゾームへの欲求・要望は増して当然。
(怪しいお米セシウムくんはロクでもないが、でも、スポンサー引き上げんなよ〜)
ともかく、護送船団はもう無理だと思う。などなど帰路思いつつ。


しかし、テレビの報道現場に対する愛惜の念はまったくないのに
新京阪やターミナルの痕跡がなくなることには、非常に心が痛む。
好き嫌いの問題なのかな〜。なんか五木寛之の『男だけの世界』を思い出す。
男だけの世界から約半世紀、発表者の方、女子アナだった。


中川清『日本の都市下層』勁草書房、1985


あと、昨日の朝日夕刊(関西版)には、かねてつのてっちゃん話が。
中島らもとか中山千夏が生CMでてっちゃんやってた話とか。
中山千夏、アニメではテツの娘(チエちゃん)やってたなぁ〜
こういうのも哀惜、愛惜。


今日は、事務処理仕事、原稿書き、研究室整理、散髪など。
原稿、何とか書いて、早く次の本をつくらないと。
近刊書の中で娘の話を冒頭に書いたので、今度は息子の話を…
(ちょっと、息子スネ気味なので。双子はたいへんだぁ)