60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

CMの最初の一滴



「CMの最初の一滴」(2016年3月4日付日経新聞夕刊)
 私の一応の専門は、広告史である。
 広告の起源については、諸説乱立しており、実のところ判然とはしていない。パピルス文書やポンペイ遺跡の壁面に広告文らしきものが見られるだとか、日本でも絵巻物の市の風景に看板が描かれている、コピーライターの開祖は平賀源内である等々。話としてはおもしろいが、いくら広告の源流を求めさかのぼったところで、広大な歴史の森の中で迷子となってしまうだけであろう。
 その点ラジオやテレビのコマーシャルとなると、音声や映像自体は残っていなくとも、放送の開始やそこでの広告のあり方を史料で跡づけることも可能である。
 そんな興味から、先日台湾を旅行した際、二二八和平公園内の「台北二二八紀念館」を訪れてみた。
 二二八事件とは、1947年に台北から台湾全土へと広がった民主化運動のことである。時の国民党政府(とその台湾行政長官)に反発した人々は、ラジオ局「台湾広播電台」を占拠し、自らの主張を放送した。そのラジオ局だった建物が、現在では記念館として利用されている。
 そしてこの建物は、もとはといえば日本統治時代に台北放送局として建てられたものだ。日本でのラジオ局開局(1925年)に遅れること3年で台北放送局はスタートし、1932年には広告放送を試みている。ちなみに当初のスポンサーは、味の素・ミツワ石鹸(丸見屋)・赤玉ポートワイン壽屋)などだったとか。 
 公共放送が先行した日本本土においては、実験的な放送例を除くと、人々がラジオコマーシャルを耳にしだすのは、やはり戦後のことになる。台湾での広告放送から約20年経った1950年代以降、民間ラジオ放送に引き続き、民放テレビ各局が続々と産声をあげていった。
 1931年夏の甲子園大会では、台湾南部にある嘉(か)義(ぎ)農林校の野球部が準優勝を果たしている。その経緯を描いた映画「KANO」(永瀬正敏主演)には、台湾代表の「嘉農(かのう)」の快進撃を伝えるラジオの前で、嘉義の人々が熱狂するシーンがあった。その翌年開始の広告放送を、人々はどのようにうけとめたのだろうか…。
だが、この台湾での試みはごく短命に終わっている。次いでラジオの広告放送の進展をみたのは、いわゆる「満州国」においてであった。満州では満州電信電話株式会社が、1936年から本格的な広告放送を始めていた。主なスポンサーは、中山太陽堂(現クラブコスメチィクス)や講談社などであったという。
 満州電電の放送番組を記録したレコードが、中国東北地方の档案館(資料館)に保存されているらしいが、さすがにコマーシャル・メッセージまでは残されていないだろう。満洲電電のアナウンサーであった森繁久彌糸居五郎の広告ナレーションが聴けたらおもしろいのだが…。
 そんなことをつらつら考えながら、旧台北放送局の建物内を歩いた。もちろん、ここは弾圧により命を落とした人々に対する厳粛な追悼の場だ。二二八事件は台湾戦後史の重要な出来事である。しかし不謹慎ながら、私は戦前の放送事情の資料や放送機材の展示によりひかれてしまった。
 小籠包・翠玉白菜・夜市だけではない台北観光をとお考えのむきには、地下鉄台大醫院駅一番出口すぐの記念館(一駅ほど先に「二二八国家紀念館」もあってちょっとややこしい)をお薦めしたい。


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写真は関学会館レストランにて。台湾風かき氷、始めましたとのこと。


野宮大志郎・西城戸誠編『サミット・プロテスト』新泉社、2016
藤岡真之『消費社会の変容と健康志向』ハーベスト社、2016