60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

大学院修了式



これは先日の研究会。約150名参加!
さすが、岸政彦先生の動員効果。


今日は修士・博士の学位授与式。
中央講堂での全体会のあと
社会学部チャペルでの授与式。
社会学研究科長として式辞を述べる義務が…


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 修士課程修了の皆さん、それから博士号を授与された方、本日はおめでとうございます。
 研究科長としてなにか一言しゃべらなければならないのですが、けっこう、何を話していいのか悩みました。
 ご存知の人もいると思いますが、私は大学を出てすぐ就職し、7年働いてから社会人院生として修士課程をやった人間です。その院生時代も、会社には籍を残していましたし、2年で戻るものだと思っていましたから、さほど深く院生生活にコミットすることはなかったです。というわけで、私は実は、大学院とか大学院生のこと、実感としてよくわかっているわけではないのです。
 でも、大学院を担当しだしたわけなので、もう少し自分にとって分かりやすいものにたとえながら、大学院のことを考えようと思い始めました。そこで、大学院と似ているなと思いついたのが、将棋の奨励会です。
 と言われても何のことだかという人がほとんどだと思うので、やや詳しく説明しますが、プロの将棋棋士になろうとする前段階が、奨励会ということになります。まだまだ女性の奨励会員は少ないので、基本的には小中学生の男の子たち、その地域では神童と呼ばれた腕自慢たちで、ほぼ100%メガネかけてますが、その子たちがプロ棋士を師匠として奨励会に入ります。師匠というのは、大学院で言えば、指導教員みたいなことです。
 六級から始まり、奨励会は三段までが所属します。要するに四段に上がれれば、プロ棋士となるわけです。修士(前期課程)の1年は初段って感じでしょうか。修士の2年で二段。博士(後期課程)に進む人は、三段リーグに入った感じです。三段リーグは、鬼の棲家などと呼ばれ、30人ほどのうちから、半年にトップ2名しか上に上がれない、プロになれないという世界です。三段の奨励会員がプロ棋士を倒すことも当たり前にある世界で、しのぎを削りあいます。しかも、年齢制限があるので、それまでに四段に上がれなければ、プロ棋士になる夢をあきらめることになります。
 博士課程に進む人は、もう十分承知でしょうが、これからそうした厳しい年月をすごさなければならないと覚悟してください。博士論文を書き上げ、ポストを得るまで、長い戦いの日々が続きます。プロ棋士になったとしても、あまり長きにわたり勝てないと、引退を迫られます。任期制ってことです。でもまず、三段リーグを抜けることを考えてください。
 一方、修士課程で終えて、世の中に出て行く等々の人たちには、大崎善生さんの『将棋の子』という本を薦めておきます。大崎さんは、映画化もされた『聖の青春』の作者でもあります。『聖の青春』は、若くして亡くなったプロ棋士の話だったのですが、『将棋の子』の方は、奨励会員たちの物語で、とくにプロになれなかった人たちの、その後の人生が描かれています。
 最近は、高校・大学に行きながらの奨励会員も増えたのですが、昔は中学出てそのままとか、師匠の家に内弟子として入りながら、といった子も多かったです。なので、20代半ばにさしかかって、それまでプロになることだけを考えてきた奨励会員たちが、いきなり何の知識・技術や社会的常識もなく、世の中に放り出されることになります。しかも同期10人いれば、プロになれるのは、多くて2、3人といった厳しい世界です。もちろん、将棋に関わる仕事を見つけたり、一念発起して資格を取り、バリバリ働いている人もいます。ですが、皆が皆うまくいくわけではありません。
 『将棋の子』の中には、借金から逃げるために、身元がはっきりしなくてもできる仕事を転々とする、元奨励会員の姿も描かれていたりします。大崎さんが、取材をしようとしても、なかなか行方がわかりません。
 その人にもようやく会うことができました。そして、ここは一番感動的なところだったのですが、そうして住み込みの仕事を転々とするような生活をしていても、その元奨励会員は、奨励会を去らなければならなくなった日に、将棋連盟から渡された将棋の駒を、今でも大事に持っていました。
 プロの夢を諦めざるを得ない人に、駒を渡すのは残酷な気もしますし、実際にその駒を受け取らず、置いていく人もいるようですが、その元奨励会員は、ずっと持っていました。そして、10代から20代にかけての年月、ただひたすら将棋に没頭したことを誇りに思っている、奨励会の日々が今でも心の支えだと語ります。
 修士課程で終える人にとって、ここでの年月がそうしたものであってくれればなぁと思います。
 最近、中学生でプロ棋士になった人、77歳までプロであり続けた人などにスポットライトが当たっています。でもそうした、将棋の神に愛された人々以外にも、それぞれに将棋は多くのものを与えてくれる、大切なものだったりします。
 社会学の研究が、皆さんにとってそういったものであればいいなぁと思います。
 しかし、まぁ、まずは、私自身がそう思えるだけ、やらんといかんなぁという話なのですが。
 ともかく、修士論文と修了証書を、将棋の駒みたく、皆さんにも大事にもっていてほしいものだと思います。
 以上で、お祝いの言葉とさせていただきます。