60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(3)古都・京都も、港町・神戸も。

そういえば、ゼミ卒業生ネタでこんなのもあった、あった。皆活躍を祈念。

 

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(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(3)古都・京都も、港町・神戸も。

 

 授業では占領期の大阪についてはふれるので、ここでは京都・神戸についての文献案内など。

 まずはベストセラーとなった、井上章一『京都ぎらい』(朝日新書、2015年)から。

 

100p「京都にも、新しさのかがやきをしめすところが、ないわけではない。たとえば、植物園の北側、北山通りぞいの界隈が、その例にあげられる。…このあたりがそういうエリアとなった背景には、京都の戦後史もひそんでいる。敗戦後の京都を管理した占領軍には、植物園の敷地が住区としてあたえられた。一九四五年以後、同園には連合軍側の宿舎が、たちならぶこととなる。東京で言えば、渋谷のワシントンハイツにあたる一帯となった。/そこでくらす占領軍の人々をあてこんだ店も、北山通りにはあらわれだす。当時の日本人には手の出にくい洋風のぜいたくな商品も、売られるようになった」

 

 京都(というよりは洛中)の保守性、旧弊を嫌う本ゆえ、例外的な場所として北山一帯が言及されているわけですが、現京都府立植物園がかつてOff limits to Japaneseなエリアとなっていました。京都で育った西川祐子(『古都の占領:生活史からみる京都 1945-1952』平凡社、2017年)は、そこに漫画「ブロンディ」の世界が広がっていると想像していました(岩本茂樹『憧れのブロンディ:戦後日本のアメリカニゼーション』新曜社、2007年)。そのほか、目についた範囲では、大内照雄『米軍基地下の京都1945~1958年』(文理閣、2017年)、大場修『占領下日本の地方都市:接収された住宅・建築と都市空間』(思文閣出版、2021年)など。司令部のおかれた大建ビル(現COCON KARASUMA)や祇園甲部歌舞練場から、深草、藤森、大久保、祝園などなど、空襲にあわなかった京都は、占領期および朝鮮戦争期、軍都でもありました。ちなみに、現在近畿で唯一の米軍施設は、京丹後市にあります。

 次いで、神戸。市の中心部に目をやると、

 

112p「中央区には、三宮から元町を中心に居留地の焼け残った近代建築が接収され、神港ビルディングに神戸基地司令部、三宮南には複数部隊の駐留したイースト・キャンプが置かれたほか、神戸港関連施設も立入禁止とされ、百貨店や山手のホテル(旧トアホテル、富士ホテル等)や個人住宅、公共施設など数々の接収物件が密集した。また、兵庫区東部の新開地には、黒人兵の駐留したキャンプ・カーバーの設営、劇場・映画館であった聚楽館の接収、神戸駅南に貨物専用モータープールの設置などが見られた」(村上しほり「神戸・阪神間における占領と都市空間」小林宣之・玉田浩之編『占領期の都市空間を考える』水声社、2020年)

 

 米軍内での人種の分離の様子が興味深いです。現在神戸大学の六甲台第二キャンパスには「六甲ハイツ」がおかれ、西宮・芦屋や垂水ジェームス山などの洋風建築、さらには甲子園球場なども接収されていました。

 最後に神戸市に生まれた横山ノック(1932~2007年)への、上岡龍太郎の有名な弔辞を引いておきます(YouTubeなどでも閲覧可能)。

 

「…六甲のベースキャンプ、ハウスボーイ時代にはサミーと呼ばれ、宝塚新芸座では三田久と名乗り(略)漫才師から参議院議員大阪府知事、最後は被告人にまでなったノックさん。(略)進駐軍仕込みの英語が堪能だったノックさん、そのくせカタカナが苦手だったノックさん…」

 

 ちなみに横山ノックの本名は山田勇。「いさむ」からとられたサミーでした。接収されていた西宮の甲子園ホテル(現武庫川女子大)でも働いていたとか。

 さらにちなみに、コロボックル・シリーズで有名な童話作家佐藤さとるは、旭川や横須賀でのボーイ時代、「オウリィ」と呼ばれていたとか。

 

203p「英語のRの発音は日本人には大変むずかしい。ところが世間ではあまり知られていないが、日本語のRも、アメリカ人にとってはむずかしいのだ。たとえば、ローマ字で書いた「KAMAKURA」(カマクラ)を、米兵たちは「カマキュア」に近い発音で読む。このときの軍曹も、やはりサトルがうまく読めずに何度も口の中で繰り返した。/とっさにぼくはメモ用紙を返してもらい、『SATORU』を二本線で消すと、かわりに、『OWLY』と書いた。軍曹が不思議そうな目で見返したので、ぼくは自分の鼻を指差して、「ニックネーム」といい、あのミスター・ジャッキーがやったように、「フーフー」と鳴き真似をしながら、両手の掌を翼のようにひらひらさせた」(佐藤さとる『オウリィと呼ばれたころ:終戦をはさんだ自伝物語』理論社、2014年)

 

 ややからかいの意味を含むあだ名ですが、佐藤少年には米兵相手に便利な通り名だったようです。ちなみにサトウは「SATOW」と綴ると、「慣れればアメリカ人にもきれいに発音できる」とのこと。