60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

「広告」に明日はあるのか、ないのか、どうなのか。(7)昭和の初めの「広告」について

 NHK映像の世紀」といえば、昨年8月29日放送の「東京 破壊と創造 関東大震災東京大空襲」に、1930(昭和5)年の帝都復興祭の映像もありました。都電を止めた銀座の通りでは「日本初の広告行列も行われた。163の企業や団体が奇抜な演出を競いあい、市民の喝さいを浴びた」とナレーションにあります。

 この広告行列をプロデュースしたのが、広告代理店の正路喜社でした。高森有吉『どきゅめんと正路喜社』(北海道正路喜社、1972年)という本には、次のようにその様子が描かれています。

「行列のトップは、「活力素」、次は十個の瓶形大頭を振りながら踊って続く「大黒ブドー酒」、「ポリドールレコード」の大車輪が通ると思えば、「講談社」の大万燈、少年ダルマがピョコピョコ引切りなく、これに交じって雑誌名を大書した金銀の大玉が続く。無慮二百余名の大集団、流石は講談社、之に数十組の徒歩隊が華麗な絵巻きとなって続行。/仮装自動車の先頭に正路喜社のツェッペリンが進み、「小児牛乳」「ハレーダビットソン」「月桂冠」……等々延々半里に及ぶ大行列が、復興の喜びに湧きたち、景気よく繰出して行く」。

 スクショにあるように、たしかに講談社大日本雄弁会講談社)は『冨士』『婦人倶楽部』『雄弁』『現代』など当時出版していた雑誌の「大万灯」をパレードさせていますが、「金銀の大玉」とあるのは高森有吉(1898年生まれ)の記憶違いかもしれません(いや、後続にあるのかも。また、高森前掲書には参加企業は78社、後援新聞社16紙とあります)。でもまぁ、細かいことは気にしないでおきましょう。

 この広告行列とは、正路喜社が仕掛けた「第一回広告祭」の目玉イベントで、翌年の第二回においても、豊島園少年音楽団を先頭に、仮装行列は「二十余町、是が観衆二十余万人、帝都は哄笑爆笑の渦巻に包まれ、午後五時半上野公園二本杉の解散場到着、第二次広告祭は茲に芽出度く終了した」(高森前掲書)との盛況であったよう。広告祭行進曲も作られていたようで、その歌詞をこれまた高森前掲書から引いておきます。

 

 産業興り、国力振う 新しき世を導きて 商工業は躍進やまず

 見よ広告はその先駆 仰げ広告、これありてこそ 良き商品は普及せん

 喜べ 踊れ 広告祭 我等が感謝 広告祭

 

 前回の言い方で言えば、まさしく「広告」のジングルです。

 高森有吉は戦後インタビューに答えて、この広告祭のアイディアは、当時世界各地で行われていた広告祭をヒントに雑誌『広告界』の編集長室田庫造が発案し、正路喜社の黒崎雅雄がプロデュースしたと語っています(渋谷重光『語りつぐ昭和広告証言史』宣伝会議、1978年)。正路喜社はパレードに出た企業から参加料を集め、また各参加企業が出稿した「広告祭に参加する旨の新聞広告」を一手に扱い、売り上げを伸ばしていったとか。高森は同インタビューにて次のように語っています。

「正路喜社は、この広告祭が大成功を収めたので、それも之も協賛してくれた広告主のおかげであると、後日、広告主に感謝の意を表す「広告祭感謝の夕べ」をやりましたよ。これは、朝日新聞社の講堂を借り切りましてね、第一部が講演、そして第二部で、わが国初めての「広告劇――新東京六景――」を上演したんです。脚本演出は室田編集長で、出演者は東京マネキンクラブのマネキン・ガールたちです。もっとも、劇とはいっても広告主の商品名をおりこんだ寸劇とかレビューまがいのものでしたが、招待した広告主の社員の方たちは喜びましたよ」(渋谷前掲書)

 そして高森前掲書によれば、広告祭の大成功を目の前にして「電通光永営業部長」は、「今まで残念で堪らぬことは数回あったが、今度の広告祭位口惜しいことは無かった。…恐らくは私の一生中只一度の口惜しさであろう」との感想をもらしたとか。これは光永星郎でしょうか、それとも弟の光永真三でしょうか。いずれにせよ、電通社長となる人がライバル視していた正路喜社ですが、戦後のメディア界の激変を乗り切れず、1961年に倒産しています(全国一般正路喜社労働組合編『砦にひるがえる旗 正路喜社闘争この六年』労働旬報社、1968年)。

 まぁ、戦後の話はおいておくとして、これまでのこの連載の文脈で言うと、これら「広告行列」や「広告劇」は、ブランデッド・コンテンツやネイティブアド――コンテンツに溶け込んだ状態の広告――ということになりそうです。

 もう一つ、大正から昭和にかけての時期の、「広告」の用例を紹介しておきます。横溝正史『広告人形』(聚英閣、1926年)の表題にもなっている短編小説「広告人形」には、次のような一節があります。

「広告人形――といっても、呉服店などのショーウィンドウの中によく見る、あの美しいかざり人形のことじゃないんだ。ほら、よく繁華な街通り、例えて言って見れば東京なら銀座だとか浅草、大阪なら道頓堀だとか心斎橋筋、京都ならまぁ四條だとか、そう云う風な賑かなところを、よくのこのこと歩いている張子の人形があるだろう。なるべく人目を惹くように変てこな恰好に拵えてあって、その中へ人がはいって歩くんだ。そして擦違う人毎に広告のちらしを配っている――あれなんだ」

 要するに、今でいう「ゆるキャラ」の被りものみたいな感じです。この小説の場合は、張り子の浦島太郎や福助などですが、そうした広告人形の中に入ったことで、ある「画工(えかき)」が事件に巻き込まれるという話です。その画工は単に絵を描くだけではなく、「図案文案引き受けます」といった内職もしていました。今の言い方だと、広告デザイン・コピーライティングも引き受けます、ということになります。ここで注目したいのは、大売り出しなどのチラシを配るキャラクターや店頭に置かれたマネキン人形などが、「広告(人形)」ととらえられていた点です。

 ともかく今回言いたかったことは、戦後テレビが普及し、民間テレビ放送のコマーシャルが広告の典型として、広告に対する社会的通念がかたちづくられる以前には、有象無象の「広告」が存在した、ということです。

 

 最後にオマケとして、正路喜社に関する抜き書き2点。

 

「第2次繁栄期に入った正路喜社は、昭和4年1月、3年がかりの新社屋(鉄筋コンクリート造4階建・地下1階・延230坪)が銀座のどまん中に竣工した。地下1階から3階まで、新聞や雑誌を運搬するリフト、全階にドイツ・プデラス社の低圧温水暖房設備など、当時としては「ゼイタク・ビル」とうわさされた」(角南浩『広告人声』フジモト・ブレーン、1982年)

 

(昭和13~14年に正路喜社に勤務の祐乗坊宣明氏談)「Q 正路喜社の企画部考案課というのは、当時の広告代理店としては珍しい存在ですね。/祐乗坊 あの社は、どうしようのない前近代的な体質と、妙に新しいことに取り組む面とを合わせ持っているところでしたね。考案課は、図案家二、三人いて全部で五人ぐらいで、役員直属の機関でした。仕事は主として外交さんの側面援助でしたね。たとえば、来週は自転車屋にゆくとか、造血剤のメーカーにゆくとかいわれると、資料室に入って外国雑誌をひっくり返しながら、これはと思う広告デザインを考えたり、何か気のきいたネタはないかと探したり、準備しましたね。実は、「資料室」なんてのも、他にはあまり見かけませんでしたね」(渋谷前掲書)

 

 ちなみに、上の祐乗坊宣明氏は、嵐山光三郎氏のご父君。正路喜社、クリエイティブ面におけるモダンさと、営業体質の前近代性(大外交による歩合主義)とのキメラだった模様。