60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

「広告」に明日はあるのか、ないのか、どうなのか。(16)広告会社社員の描かれ方、語られ方をめぐって。

 これまで何度か広告業界を描いたドラマや消費社会論の変遷――広告や消費をめぐってどのような議論がなされてきたか――についてふれてきました。私がそうしたことについて述べるようになったきっかけは、以下のネット記事です。

電通・博報堂の男性社員が「圧倒的にモテる」そもそもの理由(難波 功士) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

 なかなかすさまじいタイトルで、我ながら「なんだかなぁ」ですが、単純なルッキズムというよりは、もう少しブルデュー的な各種資本の観点から大手広告代理店社員の採用のされ方について考えてみてもよいのでは、と考えた次第です。

 私個人は、父親が早世したため経済資本的にはさほど恵まれず、社会関係資本的にはほぼ皆無で、中肉中背の凡庸な身体資本の所有者ですが、傍流学部卒とはいえ学歴資本はあり、新制大学(地方・駅弁)一期生の父親と、高等女学校から切り替わった新制高校卒の母親からは、中間文化資本――高級文化ではなくとも――を引き継げました。で、運よく若い頃、大手広告代理店での異文化体験ができました(転職してからも異文化でしたが)。広告代理店出身というのも、局面によっては一種の象徴資本となったり、逆にマイナスになったり…

 前出のネット記事でも一部引用しましたが、フランスの社会学ピエール・ブルデューディスタンクシオンⅡ』(藤原書店、1990年)には、広告代理店の管理職が登場します。ちなみに「ディスタンクシオン」は英語ならdistinction(区別・違い、もしくは俊逸・栄誉)で、社会学の世界では「卓越性=上品さ」と訳されたりもいます。長くなりますが、ネット記事で使用した以外の引用を載せておきます。

 

64p「ミシェル・R氏はパリにある広告代理店の管理職で、先端多国籍企業のフランス支社長を父にもつ。17区のカトリック系私立校を卒業後、シヤンス・ポー(パリ政治学院)に学んだ。妻のイザベルは地方の工業実業家の娘でやはりシヤンス・ポー出身、現在は週刊誌記者として働いている。彼らはそれぞれ30歳と28歳で、子供は二人。パリ15区にある五部屋のモダンなアパルトマンに居を構えている。彼らが好むもの、それは「心地よい快適さ」だ。日曜大工はやらず、アパルトマンを整えるために自分たちでは何もしなかった」

65p「(夫妻は)二人とも画廊を時々のぞき、展覧会にも年に二、三回は足を運ぶ。この間はブラック展を見たし、デュラン=リュエル画廊で開かれる印象派展にも絶対に行くつもりだ」

65p「食堂にある18世紀イギリス様式のマホガニー製のテーブルと椅子は、結婚直後にロンドンで購入したものだ。「今日でも同じ物が作れるかどうかわからないね(……)どうしてこいつを買ったのかわからないけど、まあブルジョワ的観点からすればまちがいなくいい投資だろうな」」

67p「ミシェルの父親も「とてもおしゃれで、絶対に派手すぎる恰好はしないし、似合わない色を着たりもしないし、これ見よがしなところがまったくなくて洗練されているの。ロンドンに行きつけの店があるのよ」。ミシェルの母親も「やっぱり派手すぎる格好はしない方だから、これからずっと仕立てのいいあのきれいな毛皮のコートを着ていらっしゃるでしょうね」。彼女もよくロンドンで服を作るということだ」

68p「料理に関しても服装や家具の場合と同じく、彼らに見られるのはやはり気取りや「行き過ぎ」の拒否であり、同じ「卓越化」の感覚である。「ワインの製造年代を識別できるその道の専門家」ではないものの、ミシェルは「かなりワインには詳しい」。義父がワインの醸造所を酒倉をもっていて、彼らに少しずつてほどきをしたのだ」

68p「彼はゴー・エ・ミユーに載っているパリのレストラン上位百軒のうち、三十軒に行ったことがあるが、その多くは仕事上の昼食である(「30回のうち、自前で行ったのは10回だけかな」)」

69p「ミシェルとイザベルはあるゴルフクラブに加入している。…彼らは距離スキーをやりに行くつもりだ。「今年の冬はずいぶん話題になっていて、その流行につられたみたいだけどね」。彼らはまた中古のサイクリング車を買い、この間の夏には大サイクリング旅行に出かけた。「これは健康にいいよ」。/学生時代、ミシェルはよくTNP〔国立民衆劇場〕やオーベルヴィリエ劇場にゴンブロヴィッチブレヒトの芝居を見に行ったものだが、今ではもう行かない。最近彼らが行った劇場はヴァンセンヌの森にあるカルトゥーシュリィとパリ・オペラ座で、映画館にはかなりよく足を運ぶ。また彼らはハイファイステレオとテープレコーダーをもっており、ラジオではフランス・ミュージック放送のレコード時評をよく聴く。ミシェルが好きなのはモーツァルト(特に『フィガロの結婚』)、シューベルト弦楽四重奏曲、バッハ、ベートーヴェン弦楽四重奏曲などだ」

 

 まぁなかなかスノッブで、親世代ほどではないにせよ、ブルジョアジーとして、プチブル(趣味)には否定的です。イザベル曰く「地方の事務員はよく庭に水車とか小人の置物とか、ぞっとするようなものをやたらに置いているけれど、こうしたプチブル現象について母はいつも、まったくひどい趣味ね、こんなものの製造は禁止すべきよ、と言っていたわ」。私などは、いや庭あるだけも、じゅうぶんブルジョアじゃん、と思ってしまいますが。

 こうした文化資本的な説明よりももう少し直截にルッキズム寄りの説明をしたのが、ダニエル・S・ハマーメッシュ『美貌格差』(東洋経済新報社、2015年)です。

 

118-9p「美形が実際に売り上げを増やすかどうかを確かめるべく、オランダの広告会社を対象に調査が行われている。広告会社の重役たちの容姿が会社の売り上げにどんな影響を与えているかを調べたのだ。データが対象にしている期間(1980年代の半ばから1990年代の半ばまで)には、オランダに広告会社はたくさんあり、その多くが、とくに大手はほとんど全部、アムステルダムロッテルダムユトレヒト、そしてハーグといった大都市のある地域にあった。業界の競争は厳しかった。たくさんの会社がひしめき合っており、いずれも市場シェア10%なんて程遠い数字だった。しかしそんな企業の多くはニッチを持っており、そこでは価格支配力を持っていた。/重役たち(オランダで言うディーレクタール)は会社を切り盛りし、製作にかかわり、自分たちの仕事を売り込む。4人の人が彼らの容姿を写真に基づいて5点から1点の尺度で評価した。対象の会社を全部合わせてみると、重役の容姿が84%の人たちより上であるのと16%の人より上であるのとでは、平均で売上高が7%違っていた。明らかにこの業界では、会社に見目麗しい重役がいると、売り上げはけっこう大幅に増えることになる」

 

 でも、じゃあ美形揃えとけば…、というほど事態は単純じゃないようです。

 

126p「企業は重役たちの容姿の違いを利用して売り上げを伸ばし、利益を増やすことができるだろうか? 考えてみよう。5点から1点の尺度で3点と評価された重役が2人いる会社と、5点と評価された重役が1人、それに1点と評価された重役が1人いる会社があったとして、売り上げが大きいのはどっちだろう?/オランダの広告会社の売り上げを調べているとき、オランダ人の共同研究者と私はそんな疑問を持った。私は、会社の重役の容姿がピンキリなほうが売り上げは大きいというほうに5ギルダー賭けた(3ドル相当未満で、ヴェガス気分は程遠い)。そう考えた理由はこうだ。醜い重役が1人と美しい重役が1人いる会社は、美しいほうにお客を呼び込ませ、醜いほうは会社の奥座敷に閉じ込めて広告のデザインでもやらせておけばいいから、売り上げは大きくなるんじゃないか。月並みな容姿が2人だとそれぞれの重役が持つ容姿と他の能力の比較優位も利用できない。賭けに勝ったのは私だった。重役たちの容姿がピンキリな会社のほうが売り上げは大きかった。美形を雇えばそれだけで売り上げが伸び、利益も増えるわけではないのだ。容姿の面で有益な組み合わせの重役陣を揃え、それぞれ容姿に応じた適切な役割に特化させるのが大事なのである」

 

 12年間の広告会社勤務のうち、私は制作と経営管理という「奥座敷に押し込め」られ続けていましたけど(怒)。

 広告業界人を論じたものの中で、私がもっともしっくりきたのは、社会学見田宗介の次の一文です。

 

見田宗介現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫、1995年)
34-5p「一九六〇年代の終わりに、当時は先端的な職業であったコピーライターのグループにインタビューをしたことがある。「他の商品よりほんとうに価値のある商品を、その価値のあるところを大衆に知らせるかたちで売りこむ場合と、本当は他の商品と同じくらいの商品を、価値あるように見せかけて売り込む場合と、コピーライターとしてどちらに生きがいを感じるか」という問いに、彼らはすべて、「あとのばあいです」と答えた。「無個性のものを個性あらしめるということですね。」一人がつけ加えていった。そうした時の彼らの言い方に、ある顕著なシニシズムがあった。この話を、私は七〇年代に、その時代の若いコピーライターに思い出してしたことがある。その時彼は、「教科書どおりですね」と答えた。すでにこのように考えることが、マニュアルになっているらしい。八〇年代になると、この考えは、「情報」による「付加価値」の創出というかたちで、ごく平常の経済原則となっている。もはやこのことを語る人の表情に、シニシズムの幻影はない。ある種の「ゲーム」を楽しむという感覚に近い。あるいはシニシズムはこういう形で構造化し、無意識化しているともいえる。このことは、「虚構社会化」という現象が、「消費社会化」、「情報社会化」といった社会の構造的な変容と、内的に結びついていることを示唆する」

 

 腰が低いがプライドは高いと評されることの多い、広告会社営業職もどこかシニシズムニヒリズムを漂わせていた気がします。担当するクライアントが変われば、3日でその業界、その企業、その商品についてすべてわかっている風を装う技術。担当する商品や企業に対して、また一緒に仕事するスタッフに対して熱情を抱きつつも、その一方ですべてから適度に距離感を保つ心性。それは冷笑主義シニシズム)とどこか通底していたと思います。それは、代理業という出自のせいかもしれません。

 しかし、私が退社した90年代半ばでもすでに、いつまでも代理業の手数料ビジネスだけでは成り立たない、と言われてました。業界上位企業の、現時点での自身への規定やスローガンをみても、「Integrated Growth Partner」(電通)、「クリエイティビティで、この社会に別解を。」(博報堂)、「新しい力とインターネットで 日本の閉塞感を打破する」(サイバーエージェントのパーパス)、「すべての人に「歓びの体験」を。」(ADKホールディングスのパーパス)、「Symphonized Value Creation.」(東急エージェンシー)……。

 これらを広告会社(代理店)と括ることすら、もう無理なのでは。