60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

おっしゃることは、ごもっとも。



さて、入試制度改革。怪シイと言われれば、そうなんだろう。
面接などでの評価は、どうしても恣意的になってしまいがち
という指摘も、まぁそうだろうなぁとも思う。
しかし、学力試験で測れるのは、その時点での受験生の一側面。
それはそれで、怪シイ(形式的には厳正なようであっても)。
数値化されやすいペーパーテストと、
面接などによる人物本位の評価方法。
それらを並行させて、時にミックスさせて
さまざまな入試制度を併存させつつ、
入試制度ごとの定員の案分・調整で
その都度その都度最適なセンを探っていく…
しか方法はないのだろう。今の役職をやっていて
言うのは憚られるのだが、人間が人間を判別・選別していく以上
絶対的に正しいやり方はありえない。
相対的に、よりましな方法を選択していくだけなのだ。


で、この記事、何が引っかかるかというと
「新聞社だって、人物本位の選考で、社員を採用してるだろうに」
という点。もちろん、新聞社の場合、とくに記者職の場合
他の企業よりは一般常識テストや論作文の配分が高いかもしれない。
面接も、ジャーナリストとしての適性を見ているのであって
漫然と人物評価してるわけではない、ということかもしれない。
だが、記者職であったとしても、面接の結果は漠然とした
総合的な人物評価としか言いようがないのではないだろうか。
(当然のことながら、新聞社の広告営業や経営管理系の採用は、
ほぼ一般の企業と同様な、面接重視な人物本位の選考による)
この記事を書いた記者さんも、そうした評価を経てるのだし
そのうち、採用試験の面接官の側に回るかもしれない。
(もうすでに回っているのかもしれない)
自分(自社)のことは、ひとまず棚にあげといて物申す
という作法では、いまいちこちらはピンとこんなぁ、という感想。
自分のことは棚に上げ、世の中を俯瞰して言いたいこと言う
という物言いはネット上に溢れているのだから、
新聞ぐらいはちょっと別の…と思ってしまうのだが。
大学教員などもそうした物言いをしがちという点では
最たる人種なんだろうが、いや、もうそれではもたない気がしてる。
(だからこそ私は、ヤフー個人で延々と個人として呟いている)


話、大学入試に戻して。あと、学校の場合、
キャンパス(の雰囲気)との相性で
大学と受験生の間で、相互に選びあう、
というプロセスも重要な気がしている。



それがいちばん互いのためになるのでは。
そう言えば私も、1980年の冬、一受験生として
現在勤めているキャンパスに足を踏み入れているのだ。
試験の休み時間にブラブラ学校の裏手を散歩し
きれいな小川などがあって、のどかでえぇなぁ
こんなところで、気候のいい時、ぼや〜と本でも読んでたら
何か気持ちよさそう、とは思いつつも
もっと小汚いキャンパスの方が自分にはあってる…
とは感じていた。ビンボー学生には、
ビンボー学生に相応しい世界があってしかるべし…。
そんなことを考えていたので、最終的に
薄汚れた立て看板だらけで、あたりにビラが散乱してて、
おしゃれ係数の低い学生が群れてる大学に行くことになり
正直ホッとしたことを思い出す(もう30年以上前の話だ)。
ドテラやハンテンで登校し、帰り銭湯によるために
洗面器さげて授業出たりするのも可だったし….
(ま、当時は、私立と国公立とでは学費の差は雲泥で
私の場合、授業料免除を活用して、4年間で大学(国庫)に
収めた額は、自動車教習所に払った額より少なかった…。
私立/国公立の差は、相対的にずいぶん減ったもんです)



大学と学生のより幸せな出会いが、
結局は双方のため、ひいては社会のためになりそうな気がする。
オープンキャンパス、終わってしまったけど
大学は「体感して選ぶ」のが最良の方法だと思います。