60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

ご冥福

土曜日は校務で朝から出勤、終わり次第京都に向かう。


大学時代、歴史系の自主ゼミサークルのようなことをやっており、その同窓会。
余りそうした集いは、これまでなかっただけに???と思い出席すると
昨年、先輩のN氏が病のためお亡くなりになったのが、きっかけのよう。


Nさんは、こちらが1980年に入学した時に、5年生。
一度だけ、二つ上の先輩たちに呑みに連れ出されたとき、
同席させていただいたことがあった。
塾の講師をしつつ、小説を書いている…
と紹介され、そんな生き方もあるんだなぁ、と思った記憶がある。
その後、Nさんは京都・関東で塾講師を続け
数年前から郷里に戻り、高校の教壇に立ち
進路指導などにあたっておられたとか。
こちらも最近、業務の必要上、各高校の進学実績などを見る機会があり
Nさんが勤めておられた某校の進学実績が最近あがってるもんだな、ほぅ
と思ったことがあった。Nさんのご努力も大きく寄与したのだろうか。
そんな接点はあったのだが、すれ違いのまま。
人生で一度限り交点をもったNさんだった。黙祷。


追悼文集をいただいたので、パラパラ読んでいると
Nさんが同じ日本史の同じ時代を専攻されていたことを知った。
(ここで初めて知ったぐらいだから、
そのての研究会や研究室等にはあまり顔を出すタイプではなかったよう)
卒業後数年してある機会に「予備校教師の…」と紹介され
そうした紹介の仕方は辞めてくれと、不快の念を示されたとか。
また、病床でのメールのやり取りの中に、
「大学四年の時、風の歌を聴けに出会ってしまい…」云々とあったとか。
村上春樹は多くの人の人生行路に影響を及ぼしてるんだろうなぁ。
最後の職場となった某高校では、非常に生徒に慕われ、
告別式では嗚咽、慟哭が絶えなかったとか。


そのサークルは、1970年入学の方が立ち上げられたもので
会には70〜80年入学組の20数名が集まっていた。
当日いきなり、自分たちがもっとも若輩組だとわかったが
なんかそれもわかるような気がした。まぁ、直接には
会の呼びかけ人中の同期生の某君が、幹事の中心となられた方と
仕事上のつながりがあったため、某君の代(つまりわれわれ80年入学組)まで
招集がかかったという事情があったようだが、やはりこの辺が節目かなぁとも思う。


70年代に立ち上がった歴史系サークルである以上
マルクス主義歴史学やら唯物史観やら史的唯物論とはもちろん無縁ではなく
当然、学生運動の余熱というか余燼の中で活動が始まっていた。
私たちの世代(クリスタル族(笑))にしても、そうした流れと無関係ではなかった。
でも、私たちの代は、気風の変わる転換点でもあったと思う。
(なんせ、無節操な私が委員長の代だ。シラケ世代)
70年代入学世代には、地方出身、全校一の秀才、郷土の輿望背負いみたいな、浪人経験あり
が多かったのに対し、共通一次試験2年目ということもあるのだが、偶然
80年入学組は、都市部にある進学校群の内の一つを卒、そこのそこそこ秀才、現役生
が中心だった。
70年代入学組の進路が、教員・公務員・ジャーナリストetc.に対し
80年組(以降)はけっこう多様な企業に散らばっていった。
80年以降入学組には、それ以前の世代が持っていた「社会を背負って立つ」気は
概して薄いように思う。私生活至上主義といわれれば、そうかもしれない。
スタイリストでシャイなNさんにしても、ある時「人民のために生きたい」
ともらされたという。こちらは、人民(小市民?)ですがなにか?、という感じ。
まぁ、でもそうした偏差も、30年も経てばスブスブなんだろうけど。
ともかく懐かしく、楽しい会でした。呼びかけ人の方々に多謝です。


その後、同期の高校教員某氏と大学教員某々氏と軽く呑む。
最近の生徒・学生とどのようなコミュニケーションのとりようがあるのか、など。
某氏は最初の勤務校では、世界史の試験で四つのカーストを書けという問題の答案に
バラモン、クシャトリア、バイシャ、某」と書かれたり、
次の学校では、毎日のように「某、死ね」「殺してやる」といわれていたが
それはそれでコミュニケーションはあったが、今の学校では「圏外?」とよく思うとか。
酒好きの某々氏は、最近のゼミ生は呑まなくなったと嘆き
出張講義等で高校生に何を話せばいいかと悩んでいるとか。
社会学だと何とか接点ネタは探せそうなものだが、某々氏の専門は経済理論や学説史。
「みんなアダム・スミスって、名前ぐらいは知ってるかな。
ではアダム・スミスの奥さんの名前はわかりますか。
……マダム・スミスです。……はい、すべりましたぁ〜」
というようなことをやっているとか。皆年とりましたな。
でも、極力、物故者は出ない方向で。