60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(5)「アメリカ」をめぐる世代差、温度差

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(5)「アメリカ」をめぐる世代差、温度差

 

 今回はポピュラー・カルチャーと直接関係なくなりますが、まずは長い引用から。著者の上野昂志は、1941年生まれの評論家です。

 

24-5p「占領軍を解放軍と規定した日本共産党のように、一つの観念から別の観念に横滑りしてしまった例は極端としても、『日米会話手帖』を大ベストセラーにした大方の日本人は、観念から解放されて現実に直面するのではなく、たんに現実的になっただけなのだ。現実的であることは、現実に直面することと同じではない。それは、むしろ現実を、利害や打算という角度から無意識に再構成することでおおい隠してしまうのだ。たとえばこんなふうに。

 

 あのとき天皇陛下は、なぜ、最後の一人まで戦えっておっしゃらなかったのかなあ。もってえねえ話だが、おら泣くにゃ泣いたが、やっぱりもう一戦やりたかったなあ。
 親を殺され子を殺され、家を焼かれて、へっ、いまさら毛唐にもみ手をして、へいへいばったの真似ができるもんけえ。これあこのまま納まりっこねえね。騒いだってしかたがねえね。
 しかし、もうこうなったら、どっちにしたって――もう駄目だね。畜生(中略)ええ、畜生、ヤケだ。こうなったらへいへいしたっていいや。戦争にゃ負けたんだから、もうこうなったら奴らに頭を下げて、それでおらなりの敵を討ってやる、あいつらからふんだくってやる、畜生、いくらでもいい気になりやがれ。こっちは顔じゃあ笑って、腹の中であざ笑ってやる。あいつらあ、まあ或る意味でお坊ちゃんだからな、シャクに障るが、しかたがねえ。

 これでね、中国もヘンなことになっちゃって、勝った方の仲間に入ったようなあんばいにゃなったが、これから何年かたってみろ、日本人の方がアメリカから可愛がられるに決まってる。(中略)おら、こうなったらハマにでもいって洗濯屋にでもなろうかと思う。(『戦中派不戦日記』、一部難波改変)

 

 これは、まだ学生だった山田風太郎が、敗戦直後の八月十八日に会った町工場の親父さんから聞かされた怒りともグチともつかぬ話の一節だが、わたしは、これを読むたびにいつも何ともいい難い感慨を覚えて立ち止まる。というのも、この親父さんのなかでは、天皇に最後まで戦えといってほしかったというところから、こうなったら仕方がない、アメリカに頭を下げてふんだくってやるというところまでの変転が、切れ目なく続いているからである。つまり、「徹底抗戦」から「和平」への転換が、まったく転換と意識されずに「自然」に移行してしまっているのだ。そして、その「抗戦」においても「和平」においても、向き合うべき個別の他者としての敵は不在なのである。ならば、そのあと実際に姿を現したアメリカも、現実である以前に、現実的に対処すべき対象であるにすぎない。そして、戦後のほとんどの日本人は、その後、彼がここで話(原文ママ)った通りの道を辿ったのである」(上野昂志『戦後再考』朝日新聞社、1995年)

 

 1922年生まれの小説家・山田風太郎は、医大生の時に敗戦を迎えました。その日記に残されている庶民的リアリズム(もしくはニヒリズム)に対し、大学教授の子で自らも博士後期課程まで進み、『ガロ』から本格的な評論活動を始め上野昂志にとって、「アメリカ」はより思想や理念のレベルで捉えるべき相手だったのでしょう。もしくは60年安保反対闘争の頃、成人を迎えた上野にとって、「アメリカ」は理念として否定すべき対象だったのでしょう。

 青年期に敗戦を迎えた山田と、敗戦時物心ついていない上野との間、敗戦を少年期にむかえた世代に、(2)に登場した小林信彦(1932年生まれ)らがいます。上記町工場の親父さんのように現実的に、もしくは上野のように理念的に「アメリカ」と対峙・対処するのではなく、もっとも多感な時期に、アメリカの映画などポピュラーカルチャー、鬼畜米英、「理想としてのアメリカ(民主主義)」などなどに目まぐるしく接した世代です。

 1932年生まれの小田実の小説『アメリカ』(角川文庫、1976年、原著は1962年発行)の解説には、小田が「ものごころついてから、私の前にはいつでも『アメリカ』があったような気がする……私のこころ、というよりはおそらくからだの奥深いところに『アメリカ』があって、それはたとえば……文部省の発行した『民主主義』という教科書のなかの『アメリカ』、チューインガムを私に投げあたえた『アメリカ』、私のまわりに火焔をもたらし、すべてを焼きつくした『アメリカ』……」と述べたとあります(602p)。こうしたアンビバレントな感情が、小田をして「ベトナムに平和を市民連合(べ平連)」の活動へと駆り立てたのかもしれません。

 しかし、戦争経験を世代論だけで語るのにも無理があり、小林信彦小田実石原慎太郎が同じ1932年生まれだったことを考えると、同様の体験をしていても多様なその後がありうるということでしょう。

 山田風太郎の日記に登場する町工場の親父さんにしても、ただただ現実的な対処を、戦前・戦中・戦後を通じてシームレスにしていたわけではありません。山田風太郎『新装版 戦中派不戦日記』(講談社文庫、2002年)で確認したところ、上野昂志が引かなかった箇所に、以下のようにありました。

 

439-40p「でえてえアメリカなんて女が大きなつらしやがって、男は女の靴紐を結ぶなんて可笑しな国だそうだから、そう日本の女に可愛がられると、日本が大好きになって、駐屯が長くなったりしたらこまる。司令官がもう帰れなんていっても、おらいやだ、おら日本がいい、おら日本に残りますなんてことになったら一大事だ。(中略)男で負けて、日本は女で勝つというもんだ。/こうなると女さまさまだ。うんにゃ、もうそろそろ男の時代がすんで、女の時代が来たのかも知んねえぜ、本当に。……戦争ってものは、どうしたって男の時代だからなあ。思やあ長い間、女もつれえ目をして来たもんだ」

 

 その後、高度経済成長期(=男の時代)に自信を取り戻した日本(の男性)の、アメリカ観の変容についてはまた回を改めて。

 最後に蛇足ながら、中華民国政府とアメリカの蜜月が始まりそうと予測した親父さんの「日本人の方がアメリカから可愛がられるに決まっている」の言には、21世紀の今日から振り返ると、いろいろ感慨深いものがあります。