60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(14)CIEの映画と堀内誠一のデザインと

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(14)CIEの映画と堀内誠一のデザインと

 

 占領期のアメリカの文化的影響に関して、GHQ民間情報教育局(CIE、Civil Information and Education Section)の存在は、土屋由香・吉見俊哉編『占領する眼・占領する声:CIE/USIS映画とVOAラジオ』(東京大学出版会、2012年)をはじめ、近年研究の進展をみていますが、まだなかなかその全貌がみえてこないところがあります。

 

108p「占領期にGHQ民間情報教育局(CIE)の肝煎りで積極的に展開された公民館運動は、戦後民主主義の実験的な拠点となったもので、大島渚の『白昼の通り魔』(一九六六年)が、公民館を戦後民主主義の挫折のシンボルとして苦く郷愁を込めて描いたことが思い出される」
108-9p「短編教育映画は、占領期のCIE映画(ナトコ映画)以来、市民的公共圏を形成するためのメディアとして大きな役割を担ってきた。日本製CIE映画の『わが街の出来事』」(シュウ・タグチ・プロ、CIENo.189、一九五〇年)は鎌倉市のゴミ問題を住民たちが民主的な手順を踏んで解決するフィルムで当時好評を博した」
(中村秀之「原水爆、家長、嫁:『生きものの記録』(一九五五年)における「私」の自壊」ミツワ・ワダ・マルシアーノ編『「戦後」日本映画論:一九五〇年代を読む』青弓社、2012年)

 

 ナトコ映画は、映写機(National Company製)の名称から。多くの社会教育的なフィルムが作られ、全国を巡回していきます。また、人々への啓蒙・啓発という点では、CIEはPR(パブリック・リレーションズ、広報活動)の普及にも足跡を残しています。(https://www.jsccs.jp/publishing/files/19th_004.pdf

 それから図書館事業。1945年の早々から、CIEは動き始めます(マイケル・K・バックランド『イデオロギーと図書館:日本の図書館復興を期して』樹村房、2021年)。

 

67p「CIEは、内幸町の当時放送会館と呼ばれていた。旧NHKの建物を接収していた。11月15日会館の108号室にパンフレットを中心とした小規模な図書館が開館した。翌1946年3月CIEは日比谷にあった日東紅茶の喫茶室を接収して、図書館が移転し、利用者中心のサービスを開始して瞠目され、盛んに利用された。都内ばかりでなく、地方からの利用者も少なくなかった。その後、CIEは人口20万以上の17の市にインフォメーション・センターを設置する方針を立て、着々と実行に移していった」(今まど子「CIEインフォメーション・センターの図書館サービスについて:九州編」図書館学会年報41-2、1995)https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajsls/41/2/41_67/_pdf/-char/ja

 

 たとえば、2024年3月15日付『朝日新聞』「語る―人生の贈り物 編集工学者・松岡正剛5」には、中学生時代(松岡は1944年生まれ)に「京都の「アメリカ文化センター」に行って、向こうの新聞を見た。ニューヨーク・タイムズとかワシントン・ポストとか。それがものすごくかっこよく見えて、新聞や雑誌というメディアに関心をもちました」とあるのも、この流れです。また、グラフィックデザインの領域で活躍したアートディレクターなどについて調べていると、このCIEの図書館などで洋雑誌をみて勉強したという証言をよく見かけます。

 CIEとは関係ないですが、以下の堀内誠一氏の回想も大変興味深いです。堀内誠一は戦後すぐに伊勢丹宣伝部に入り、その後ファッション関連のグラフィックデザインを手がけ、最後は平凡出版(現マガジンハウス)にてさまざまな雑誌の創刊に関わり、日本の今日的なファッション誌のデザインの原型をつくった人として有名です(絵本画家としても有名で、代表作は「ぐるんぱのようちえん」)。

 

72p「伊勢丹の建物は戦災をまぬがれたビルの数少ないひとつでしたら、三階から上は進駐軍に接収されていました」
72-3p「沢山あったのは、倉庫に積まれた、戦前戦中のさまざまの資料で、広告関係の物置には戦前の『フレンチ・ヴォーグ』や『イリュストラシォン』誌や美術書、図案集の類いが、洋服部や呉服部関係にはスタイルブックや意匠図案、柄見本などが山とあり、ある倉庫には戦前のマネキン人形置場というか捨て場で、ジョセフィン・ベーカーまがいの金塗りの人形、アーキペンコの彫刻のような流線型の時代離れした人形たちがほこりをかぶっており、それはSF映画スター・ウォーズ』の中古ロボットの奴隷船のなかのようでした。エンサイクロペディアのなかに住んでいるようなもので、営繕係の人を別とすれば、私ほどこの建物の隅から隅までを家ネズミのようにもぐり廻って楽しんだ人間もいないでしょう。」
73-4p「新しいデザインの資料、外国雑誌もふんだんに取り寄せられて、『エスクワイヤ』誌が新進デザイナーのポール・ランドの手で誌面が一新されるのを見るなど体験でき、進駐軍の見終わったパルプマガジンをドサッともらってくることもできたのです」
堀内誠一『父の時代・私の時代:わがエディトリアル・デザイン史』ちくま文庫、2023(原著1979年)

 

 新宿伊勢丹は、1933年にオープン。戦前は「モダン」の震源地として、戦後はファッションの伊勢丹として名を馳せ、1960年代ティーン向けのコーナーも充実していました(高野光平・難波功士編『テレビ・コマーシャルの考古学:昭和30年代のメディアと文化』世界思想社、2010年)。いつの間にか、三越伊勢丹となってしまいましたが…。

 

 

立て看文化、残ってほしいもんだ。

 

シナン・アラル『デマの影響力』ダイヤモンド社、2022

(講義関連)アメリカ(13)庄助(1950年生)10歳とモデルガン

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(13)庄助(1950年生)10歳とモデルガン

 

 このシリーズの2回目に述べたように、1950年代から60年代初頭にかけて、アメリカのテレビドラマが日本のお茶の間(←死語)に溢れていました。8回目にも引いた山口瞳江分利満氏の優雅な生活』は、長男「庄助」とモデルガンのエピソードから始まります。

 

「少年はしばらくコルトに凝ったことがある。食事中も手離さず、夜も抱いて寝たが、1年経(た)って小遣(こづか)いをためてSNUB-NOSE.38を買った。私立探偵(プライベート・ディテクティブ)のつもりである。「サンセット77」というテレビ映画をご存知のかたはすぐ分るはずと思うが、上着の下に仕込むピストルである。/彼は様々にスナッブ・ノーズを発音してみた。勉強中にもときどき「スナッブ・ノーズ!」という気取った声が聞かれた」(『山口瞳大全第一巻』新潮社、1992年、11p、()内は原文ルビ、以下同様)

 

 庄助少年が辞書を引いてみたところ、「獅子鼻」と出てきて、「獅子の鼻、勇ましいネーミング!」とさらに気に入ったのですが、母親にそれは「獅子鼻(ししっぱな)」と読むのであり、獅子舞の頭のような、ぺちゃんこな鼻のことだと教えられ、一気に熱がさめていきます。江分利満氏はほぼイコール山口瞳であり、息子庄助はそのまま、作家・エッセイストの「山口正介」となります。山口正介は、1950年生まれ。10歳当時のエピソードなので、1960年から61年にかけての出来事だったのでしょう。

 アメリカの探偵ものドラマ「サンセット77」は、本国では1958年に放送開始で、日本では1960年から63年までKRT(現在のTBS)にて放送されました。その頃山口瞳が勤務していたサントリーの一社提供だったので、わざわざ番組名まで出したのでしょう。

 この頃のモデルガンブームに関して、社会学の領域で以下のような論文もあります。探偵ものというよりは、西部劇のブームによるものですが。

 

19p「テレビ西部劇を模倣してモデルガン遊びをする場合、暴力の上演は同時に「アメリカ」の上演でもある。モデルガン遊びには必然的に「アメリカ」の上演という付加がなされてしまう。これが他の暴力の上演にはみられない、モデルガン遊びに固有の特徴である。/先に述べたように、その「アメリカ」そのものは、当時の少年たちが惹きつけられてやまないものだった。だから「アメリカ」の上演という付加は、彼ら自身にとって歓迎すべきことであったにちがいない」(髙橋由典「暴力の上演:一九六〇年代初頭のモデルガンブーム」『ソシオロジ』63-3、2019年)

 

 当時はまた、少年マンガでは戦争もののブーム期でもありました。少年マンガ誌の戦争特集などを見ても、戦後生まれの少年たちにとっては、「アメリカはかつての敵というよりは、戦後的価値の体現者なのであった」(同18p)のです。

 1961年生まれの私にとって、少年誌の戦争マンガといえば「光る風」(山上たつひこ、1970年)。戦争反対の声や学生運動の盛り上がりを時代背景として、はっきり言って反戦マンガでした。以前も書いた通り母親が小田実ベトナムに平和を市民連合)と同級生だったりして、私はミリタリー趣味とは縁遠かったのですが、私の子どもの頃もプラモデルと言えば軍艦や戦車、戦闘機などなどが人気でした。私のように金閣寺や姫路城を作って喜んでいたのは極めて異端で、「宇宙戦艦ヤマト」(1974年、テレビアニメ化)にも乗りそびれていました。

 まぁそれはともかく、1960年頃、アメリカのテレビドラマが大人気で、少年たちは「アメリカ=戦後的価値の体現者」として、モデルガンを抱いて寝ていたのでした。

 

 

(講義関連)アメリカ(12)ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(12)ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ

 

 1977年、ソニーのラジカセ「MARKⅡ」の広告が、東京コピーライターズクラブのTCC賞を受賞しました。

 今だと、まずラジカセから説明する必要があるかもしれません。ラジオ&カセットテープ、の略でラジカセ。電波を受信してラジオが聞けて、磁気テープも再生できる一体型のオーディオ機器とひとまず理解しておいてください。

 キャッチフレーズは、「ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ」。また、そのセールスマニュアルには「青春の夢は、ふたたびロックロール」「あの熱狂が欲しい。あの底抜けに明るいリズムが欲しい。あの陽気で、はつらつとした踊りが欲しい。ソニー・マークⅡ」などとあります。これらを書いたコピーライターは、1947年広島市生まれ。ものごころついた頃には占領期も終わり、黄金時代のアメリカを全身に浴びて育った世代なのでしょう(海野弘『黄金の50年代アメリカ』講談社現代新書、1989年)。

 この「ジルバ」ですが、もともとは“jitterbug”。戦前からアメリカで流行していたダンススタイルです。

 

329p「「一般の日本人と米軍との親善交換パーティを行いたい」/という名目で、『セブン・マイルズ・ハウス』にマスコミを集め、ジッター・バッグを披露公開した。昭和二一年三月九日。じつに、終戦のわずか七か月後である。ジッター・バッグは、すぐに呼びやすいジルバという和製英語に名を変えて。爆発的に広がっていった。/その後サンバ(昭和二四年・美松ダンスホール)、マンボ(昭和二九年・松竹ダンスホール)、ロックン・アンド・ロール(昭和二九年・日本劇場)、チャチャチャ(昭和三一年・新橋フロリダ)、ツイスト(昭和三六年・ミス東京)など、概観するだけでも、そのまま戦後のダンス史を成している」(乗越たかお『ダンシング・オールライフ:中川三郎物語』集英社、1996年)。

 

 キューバ生まれのマンボにしても、中南米というよりはアメリカ由来のものとして意識されていたかもしれません。

 

116p「マンボは翌三〇年に全国的なブームとなった。新橋のフロリダを初めとして各地のダンスホールで講習会が開かれ、中川も日本中を飛び歩いた。/なぜか男性の「細身のズボンにリーゼント」という格好が「マンボ・スタイル」と呼ばれた。同じ頃に流行っていたロック・アンド・ロールと混同されたのだろう。一方女性は、ヘップバーン・スタイルが流行り、マリリン・モンローの来日、美人コンテストが流行するなど、終戦以来、日本人はどんどんファッショナブルになっていった」(乗越たかお『中川三郎ダンスの軌跡:STEP STEP by STEP』健友館、1999年)。

 

 そして、「ジャック&ベティ」は、1948年刊行開始の中学校向け英語教科書Jack and Betty English Step by Step(開隆堂出版)からきています。紀平健一「戦後英語教育におけるJack and Bettyの位置」『日本英語教育史研究』1998年3巻によれば当時圧倒的な採択率を誇っていたとか。(https://www.jstage.jst.go.jp/article/hisetjournal1986/3/0/3_169/_article/-char/ja/

 オールディーズブームのきっかけとなった映画「アメリカングラフィティ」の日本公開(1974年)から、ウォークマンの発売(1979年)までの間、ラジカセの周りで踊る若い男女(の表象)が、世に溢れていたわけです。1960年代初頭に流行したツイストとなるとソロダンス(の屋外での群舞)というイメージがありますが、ジルバはダンスホールでのペアダンスが基本なのでしょう。いずれにせよ、ベトナム戦争の泥沼にはまり込む前のアメリカです。

 その頃のアメリカを1977年の日本が懐かしむという構図が、「ジルバを踊ろう、ジャック&ベティ」という広告から浮き彫りとなってきます。

 

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 今日は講義、院ゼミ、会議など。

(講義関連)アメリカ(11)「ハーフ」のポピュラー・イマジネーション

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(11)「ハーフ」のポピュラー・イマジネーション

 

 「ハーフ」という言葉は70年代頃から広まり始め、「ゴールデン・ハーフ」という1970年代前半に活動したメンバー全員がハーフという設定の女性アイドルグループがきっかけで、この言葉がよく使われるようになったと言われています(下地ローレンス吉孝『「ハーフ」ってなんだろう?』平凡社、2021年)。

 1961年生まれの身としては、アイ・ジョージ山本リンダ、テレビドラマ「サインはV!」のジュン・サンダース(范文雀演じる)などの存在もありつつ、「ゴールデン・ハーフ」(ないし「ゴールデン・ハーフスペシャル」)が、「ハーフ」の祖型という説は、説得的に感じます。

 そして、ハーフのイメージに関しては、「欧米系・白人系のバックグラウンドと美しい外見、英語能力や外国生活経験などの文化資本中流以上の階級イメージ(必ずしも実際に中流以上の階級とは限らないが、そのようなイメージを持つもの)がパッケージ化され、それが支配的なハーフのイメージ、つまり〈ヘゲモニックなハーフ性〉として広く流通している」(高美哿「戦後日本映画における〈混血児〉〈ハーフ〉表象の系譜」岩渕功一編『〈ハーフ〉とは誰か』青弓社、2014年、80p、太字は原文傍点)。

 この『〈ハーフ〉とは誰か』には、2011~12年に大学生に対して行われた調査結果ものっており、「ハーフ」という言葉から連想する人物としては、ベッキー、ローラ、トリンドル玲奈ウエンツ瑛士ダルビッシュ有、JOYらの名が多くあがったとか。まずは、コーカソイドとジャパニーズとの間に生まれた人が「ハーフ」、ということでしょうか。こうした調査を今行っても、大勢は変わらないような気がします(大坂なおみ、八村塁、鈴木彩艶、アントニー副島淳、関口メンディなどの名も挙がるかもですが。アジャコング、最近の大学生、ピンとこないか)。

 そして、さらに言うと、『「ハーフ」ってなんだろう?』には次のような事例があがっているように、「白人系ハーフ=アメリカ」のイメージもあると思います。

 

81p「母がスイス人で、父が日本人なんですけど、イギリスで父の仕事があって、母はそこで働いてたので、そこで私が生まれて、日本に転勤になって、日本に家族全員で移って、という感じです。…小学校ではまわりから、「ヘンな顔」って言われたり、「日本語ヘンだ」って言われたり、そういうこともありましたね。これは、あるあるだと思うんですけど、ほかのクラスからわざわざ私を見に来たりだとか。あと、いっつも「アメリカ人!」「アメリカ人!」って言われてました。海外イコール、アメリカみたいなイメージが」

 

 また、『「ハーフ」ってなんだろう?』では、アイドルグループ「ゴールデン・ハーフ」が、セクシャルなものとして商品化されていた、という話がありました。そういえば、山本リンダも、清純派路線から「お色気」にふって再ブレイクを果たす、みたいな過程を子供ながらに眺めていた記憶があります。あとは安西マリアの「ハーフ匂わせ」の売り出し方も記憶してます(青山ミチは、ギリ物心まにあわず)。「ハーフ匂わせ(実際はそうではない)」の売り方と言えば、沖縄出身の南沙織もそうだったのかも。シンシアというそのクリスチャンネームが広まり、よしだたくろうかまやつひろしに「シンシア」(1974年)というオマージュの曲もあります(沖縄(出身)などのアメリカ×アジアのハーフに対して「アメラジアン」という呼称も存在しますが、詳細はS・マーフィ重松『アメラジアンの子供たち:知られざるマイノリティ問題』集英社新書、2002年、野入直美『沖縄のアメラジアン:移動と「ダブル」の社会学的研究』ミネルヴァ書房、2022年)。

 ハーフ設定と言えば、GS「ゴールデンカップス」に関しても「長い髪の少女」(1968年)くらいは、リアルタイムな記憶に残ってます。しかし、横浜(本牧)出身ゆえのギミックだったりとか、その音楽性について知ったのは後年でした

 あと、後年掘り起こしてみたといえば、映画「小さなスナック」(1968年)。やはりGSブームの副産物ですが、爽やかな青春スターだった頃の藤岡弘(現藤岡弘、)やジュディ・オングとともに、ケン・サンダースの姿が印象的でした。未見ですが、映画「自動車泥棒」(1964年)にも安岡力也、ジョー山中とともに出演したとか。また、この「自動車泥棒」には、「非行少女ヨーコ」(1966年)トミイ役の関本太郎も出演していたよう。
 ミュージシャン、ジョー山中山口冨士夫の凄さも、後年追体験することになります。

 話、大きく逸れてしまいましたが、「ハーフ」表象を通じても、日本においてジャパニーズ以外を指す際のデファクト・スタンダードとして、「アメリカ(のとりわけホワイト)」があること、その存在感の大きさが確認できると思います。

 

 

 今日は、大阪市内にて会議。

(講義関連)アメリカ(10)「釣りバカ日記」から「漫玉日記」まで

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(10)「釣りバカ日記」から「漫玉日記」まで

 

 アメリカと「釣りバカ日記」。あまり縁がなさそうですが、以下は作者のマンガ家・北見けんいちの言です。

 

216p「アルバイトで思い出すのは、写真科の学生だった昭和35年頃に、成増にあったグラント・ハイツっていうアメリカ軍キャンプで皿洗いを1年間やったことだね。キャンプで働く日本人用の寮に入り、そこから学校にも通っていたんだ。だから1年間アメリカに留学したって気分だったよ。なにしろ、ゲートをくぐるとそこはもう外国って感じだったからね。手入れのよくいきとどいた青い芝生。舗装された広い道。赤い屋根の洋館。家と家の間が20~30mも離れてるんだ。キャンプ中には小・中・高の学校もあれば教会から映画館、スーパーマーケットと何でもあるんだよ。バス停も四つぐらいあったね。もう完全なひとつの町だったな。これが本当の文化的な生活なんだと感心したよ。昭和35年といえば、冷蔵庫、テレビ、電気洗濯機が三種の神器と呼ばれ、庶民の憧れの品だった頃で、ほとんどの人がバラックに毛の生えたような狭い家に住んでた時代だったからね。このアメリカの町は夢のまた夢みたいな気がしたんだね」(フロム・エー編集部+アルファトゥワン編『フリーター』リクルート フロム エー、1987年)

 

 グラントハイツは1947年から73年まで、東京都練馬区に存在したアメリカ空軍の家族宿舎で、現在の光が丘公園や光が丘パークタウン(大規模団地)一帯にあたります。今でこそ大江戸線光が丘駅がありますが、昔は東武東上線の下赤塚や成増が最寄り駅でした(米軍基地内への引き込み線もあって、啓志(ケーシー)線と名付けられていたとか)。

 成増出身の有名人と言えば石橋貴明がいます。ネットを検索すると、下赤塚出身の故尾崎豊と地元トークをする機会があり、二人ともグラントハイツ(跡地)で遊んだことがあるという話で盛り上がったとか。

 たしかに1965年生まれの尾崎には、「米軍キャンプ」(1985年「壊れた扉から」に収録)という曲があります。他にはラジオDJケイ・グラント(1959年生まれ)も下赤塚が地元で、芸名の由来もグラントハイツからだとか。

 さて、1961年生まれの石橋貴明ですが、同年生まれに桜玉吉がいます(私もそうです)。自身の日常を描く、私小説ならぬ、私マンガといった作風で、「漫玉日記」シリーズや「日々我人間」シリーズ(連載中)などがあります。生まれてから長らく都内(ないし都下)在住だった桜ですが、現在は伊豆に居住しており、「伊豆漫玉日記」「伊豆漫玉ブルース」「伊豆漫玉エレジー」などの単行本も出ています。その『伊豆漫玉ブルース』(KADOKAWA、2019年)に収録された四コマ・マンガ「前の車が」より(69p)。

 前の自動車のナンバープレートの下に「クルミが二個入った袋みたいな物をブラ下げていて」「犬のキンタマかよ!と思ったことがあったんだけど」「ホントにキンタマだった。アメリカのジョークグッズ「トラックナッツ」というらしい」。そして最後のコマには、「練馬のグラントハイツでアメリカ人の子供とプロレスごっこをして50年…少しは文化的に歩みよれてきてると思っていたが、やっぱりワカランアメリカンなツボ」とあります。

 1961年生まれと言っても(同じく本土で生まれ育ったとしても)、さまざまな基地経験(の有無)があるもんだと思います。そういえば、沖縄生まれの羽賀研二も同い年。いわゆる「アメラジアン」に関しては、また改めて。

 

 

 今日はゼミ説明会2回目や会議など。

(講義関連)アメリカ(9)日米関係史:禍福は糾える縄の如し

自身の取材対応仕事のリンクも貼っときます。

 

メディアの役割や広告のあり方を考える時期がきた 関西学院大学教授・難波功士さんが予測する未来のメディア社会 | メディア環境研究所|博報堂DYメディアパートナーズ

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(9)日米関係史:禍福は糾える縄の如し

 

 今回は100年単位のスパンで日米の関係性をみておきます。まずは、戦前。

 

山室信一『モダン語の世界へ』岩波新書、2021年
302-3p「もちろん、アメリカニズムとは、本来、「アメリカ的流儀」や「アメリカ的言葉遣い」や「アメリカ人気質」を意味するに過ぎなかった。しかし、モダン語では、アメリカが世界に向けて発する経済・社会システムや文化や生活様式さらには価値観そのものと理解されるに至った。/モダン語辞典でも、「アメリカニズム」についての解釈は、時を経て変わっていく。1914年刊の『外来語辞典』では単に「①米国贔屓(びいき)。②米国風。米国気質」に過ぎなかった。しかし、1925年刊の『広辞林』では「①金銭を尊重し、金銭によりて万事を解決せんとし、無遠慮にして軽便を尚(たっと)び、かつ何事に於いても世界第一を目的とする一種の物質万能主義。③趣味は低級浅薄にして、万事に派手好みなるもの」となり、1934年刊の『新語新知識』では「一にも金力、二にも金力で凡(あら)ゆるものを押しぬこう、軍艦も世界一、建物も世界一、何でも他国に負けずに遠慮会釈なくやっつけようというような、拝金的で傍若無人な態度。又、所謂(いわゆる)ヤンキー式の軽佻浮薄で、享楽的で渋味のない浅薄野卑な趣味をいう」と、その影響力の増大に比例して批判的な色合いが濃くなっていく。それは取りも直さず、アメリカの影響が、日本の生活世界に浸透していく濃度に比例するものであった。/いや、それが日本には限定されない浸透力をもって世界に広がっていることに、注意を払うことが読者に呼びかけられる。1933年刊の『モダン流行語辞典』は、「アメリカニズム」を「宣伝の国、繁栄の国、ジャーナリズムの国、映画の国、機械主義の国、大量生産の国、産業合理化の国、享楽の国、ナンセンスの国、ドルの国、フェミニストの国、ストッキングレスの国、これらのカクテールによって出来たのがアメリカ主義である。現代日本のモダンの源泉は、このアメリカであって、昨日のアメリカの流行は、今日の日本の流行となる。単にわが国のみではない。このアメリカ主義は、今や全世界を風靡(ふうび)してしまった」と、その世界化を指摘する」※( )は原文ではルビ

 

井上寿一『理想だらけの戦時下日本』ちくま新書、2013年(1939年訪日のドイツ人ジャーナリストの証言)
229p「東京や大阪のビルには「ニューヨークやシカゴとほとんど変わりなく――ネオンが輝きまたたいている」。ネオンサインによる広告術はアメリカ式だ。そのような印象を受けたロスは、日本人の精神主義とは裏腹な別の側面を指摘する。「そもそも日本人はひそかにアメリカ人やアメリカニズムを愛しているのだ」」

 

川本三郎林芙美子の昭和』新書館、2003年
148p「震災後の東京ではアメリカ文化がどっと入り込んで来る。昭和六年に出版された安藤更生の『銀座細見』には、「昨日までの銀座は、フランス文化の下にあった。今日では銀座に君臨するものはアメリカである」「今日銀座を横行するものは、モダンボーイであり、アメリカニズムである」とある」

 

 銀座とともにアメリカニズムのメッカともいうべき場所が、商都であり、日本のマンチェスターと言われた工業都市・大阪。映画「浪華悲歌(なにわえれじい)」(溝口健二監督、1936年)や「新しき土」(日独合作、原節子出世作、1937年)などからも、その活気が伝わってきます。

 そして、「鬼畜米英」の時代へ。ただし、新聞記事データベース(ヨミダス歴史館)で「鬼畜」で検索してみると、鬼畜の語は1930年代中国大陸での戦線において使われ始め、アメリカに対しては1942年に入ってからのようです(1942年1月25日付「鬼畜に等しき米人暴虐の詳報 12月20日ダバオ、比島在住邦人遭難事件」)。それ以前だと、1939年8月23日「貰子5人殺す 養育費めあて 鬼畜の反抗発覚/東京・八王子」、1941年4月17日「妻子を売って賭博 捕まった鬼畜男/東京・鬼畜」となります。

 しかし、42~45年は「鬼畜」連発。そして、敗戦後は一切見かけなくなります。松本清張の「鬼畜」(1957年)以降、その映画化などに際して、頻出するようにはなりますが。

 ともかく、敗戦後、人々のアメリカ観やアメリカへの対応は一変します。例えば出版業界では、講談社(1958年まで大日本雄弁会講談社)は、戦時中に陸軍関係の雑誌・書籍を出版する「日本報道社」を関係会社として設けていましたが、戦後一転して

 

・新海均『カッパ・ブックスの時代』河出ブックス、2013年
24p「光文社は一転して、「征旗」から「光」(一九四五年一〇月創刊・13万部)という、民主主義を称える雑誌を創刊する。「アメリカに何を学ぶか」という記事や高見順の小説、和田伝、朝比奈宗源らのエッセイ、瀧井孝作の俳句などが掲載された」

 

人々の側も

 

・Dower, John,1999,Embracing Defeat, W.W.Norton=ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて:第二次大戦後の日本人』岩波書店、2004年
120p「1945年12月、京都のある玩具メーカーが全長10センチ足らずの小さなジープのおもちゃを10円で販売した。10万個の商品がすぐに店頭から消え、玩具産業復活のささやかな前触れとなったが、この商品がアメリカそのものの象徴であったことは不思議ではない。…ジープは陽気な米兵がくれるチョコレートやチューインガムを連想させた。…子どもたちは、もはや伝統的な武士のカブトではなく、柔らかいGI帽を紙で作った」

 

 占領期、米兵たちの姿は、全国津々浦々で人々の目に焼き付いていました。当時14歳だったアニメーター大塚康生は、終戦山口市でむかえ、ジープなど占領軍の車両を克明にスケッチしていました(大塚康生ジープが町にやってきた』平凡社ライブラリー、2002年)。

 そこから高度経済成長を経て、オイルショックを乗り切ったころ、Vogel, Ezra F. 1979  Japan as Number One: Lessons for America, Harvard University press=エズラ・F・ヴォーゲル『ジャパンアズナンバーワン:アメリカへの教訓』(TBSブリタニカ、1979年)が出版されます。

 

エズラ・F・ヴォ―ゲル『ジャパンアズナンバーワン:それからどうなった』たちばな出版、2000年
81p「『ジャパンアズナンバーワン』が初めて本屋の店頭に並んだのが一九七九年のことであった。大方の予想を裏切って本の販売部数は急上昇した。アメリカ国内でハードカバーが約四万部、ペーパーバックも一〇万部ほど売れた。日本では七〇万部以上が売れて、何週間もベストセラー・リストに登場した」

 

 先行するお手本としていたアメリカ(のハーバードの教授)が「日本に学べ」と論じていることに、日本のビジネスマンなどが飛びついたということでしょう。今の目から見ると、勘違いのはじまりというか、お手本を喪失した迷走の起点というべきか。

 

 

今日は3年生ゼミなど。

(講義関連)アメリカ(8)保養・娯楽施設の接収をめぐって

また別のゼミ卒業生へのリンクです。

 

ギブアンドテイクばかりじゃなくてギブが少し多くてもいいと考えられること。それが学びや成長の源泉になる。 | Interview | Mastery for Service 関西学院

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(8)保養・娯楽施設の接収をめぐって

 

 作曲家・ピアニストの大野雄二(1941年生まれ)の代表作といえば、ルパン三世のテーマがまずあがってくるでしょう。

 

158p「なぜ大野雄二さんが音楽家になったのかというと、そもそもこの大野屋が戦後すぐ連合国軍の保養施設として接収され、幼少期にアメリカの流行音楽に触れたことが影響しているそうです」(福嶋麻衣子・いしたにまさき『日本の若者は不幸じゃない』ソフトバンク新書、2011年)

 

 熱海の老舗旅館・大野屋は、現在はホテル大野屋となり、恋愛シミュレーションゲームラブプラス」シリーズとのコラボで有名だったりもします(https://natalie.mu/music/news/36260)。

 それはさておき、進駐軍クラブやFEN経由ではない、アメリカの音楽との接触もあったわけです。

 また、阿部純一郎「〈銃後〉のツーリズム――占領期日本の米軍保養地とR&R計画」(『年報社会学論集』31、2018年)によれば、1948年段階で神奈川県下では箱根(富士屋ホテル・強羅ホテル・仙石原ゴルフクラブハウス)や横須賀(逗子なぎさホテル)方面にも米軍用休養施設はあったとか。それから同じく阿部純一郎「退屈な占領――占領期日本の米軍保養地と越境する遊興空間」(蘭信三ほか編『シリーズ戦争と社会2 社会のなかの軍隊/軍隊という社会』岩波書店、2022年)によれば、スポーツ施設などの接収も全国的にみられたのだとか。有名なところでは、明治神宮球場が一時期「ステイトサイド・パーク」となり、神宮外苑競技場が「ナイル・キニック・スタジアム」となりました。とくに外苑競技場は、1943年に出陣学徒壮行会が開かれたことを考えると、なかなか感慨深いものがあります。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh/2018/31/2018_60/_pdf/-char/ja

 また以下は、『米軍基地文化』(新曜社、2014年)に載せたコラムにて、山口瞳(『江分利満氏の優雅な生活文藝春秋、1963年)についてふれた部分です。

 

「江分利の服装に関するかぎり、戦後はまだ終わっていない」として、「ズボンはアメ屋横丁で買ったカアキイ色のアメリカ陸軍将校用の、軍服」を愛用し続けているとの件などもある。

そして何よりも圧巻なのは、「優雅な生活」のラストの部分。江分利は戦後間もない頃、よく米軍のライスボウルアメリカンフットボールの試合)を見に行っていた。日本人は入れないのだが江分利は塀の穴からもぐりこみ、またスタンドには「パンパン」たちが応援に駆けつけていた。「陸軍と空軍が強く、そのふたつでいうと陸軍の方が少し強かった。元日の優勝戦には全国の基地から兵隊がバスで集まってきた」。

 勝負はたいがい陸軍が勝ち、タイム・アップになると陸軍の選手たちが空軍のエンドゾーンに殺到する。「勝ったチームが負けたチームのゴールを倒すのだ。すると、その時だ。空軍の酔っ払いがただ1人、陸軍応援団1万5千のカアキイ色をめざして殴り込みをかけに行く」。

 MPに取り押さえられた酔っ払いを眺めながら、奴は戦死した仲間の無念を抱えて暴れているのだろうと、江分利(山口)はその心情に共感する。まだまだ戦争の余韻の続く、殺気立った時代だったのである。だが「駐留軍の数がだんだん減ってくると、ライスボウルもおとなしくなった。サラリーマンみたいな兵隊がふえてきた。彼等は「戦争」を知らない。軍楽隊も威勢が悪い」

 

 山口瞳は1923年生まれ。その自伝的要素の強い小説『江分利満氏の優雅な生活』を繰ると、戦後麻布の山口(江分利)家の「2階の4間に下宿人が2人いて、1人が「星条旗(スターズ&ストライプス)」紙の特派記者でイラストレーターのPeter Landa(通称ピート)だった」とあります。今でも、六本木の通称星条旗通りあたりには、米軍向けの新聞やヘリポートなどが存在しています。

 アメリカンフットボールはさておいて、戦前から人気のあったベースボール(野球)は、さらにブームとなっていきます。これは名古屋の事例ですが、享栄商業(現享栄高校)の川村治夫の証言です。

 

82p「近くに米軍キャンプがあり、(米兵が)『われわれにもやらせてくれ』と、ボール、クラブ、バットを持って参加してきた。米兵は野球も相当うまかった。そして、ノドから手が出るほど欲しかったグラブやバットも気前よく、くれた。こんな幸運も幸いして、享栄商は東海地方のトップを走る存在になった」(堤哲『国鉄スワローズ1950-1964:400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団』交通新聞社新書、2010年)

 

 ちなみに享栄商は、甲子園球場が接収されていたため阪急西宮球場で行われた1946年の全国高校野球選手権大会には出場できませんでしたが、翌年からは「甲子園の常連組」となっていきます。さらにちなみに、1941年に国防科学大博覧会が開催された西宮球場では、1950年にはアメリカ博覧会が行われました。

 最後も野球ネタで。

 

80-1p「私はいわゆるポツダム文科である。そして我ながら驚くべきことに、野球部に属していた。戦後いちはやく、浦高野球部が再建されたとき、勇躍して武原寮から銀座の運動具店ミズノにバットとボールを求めに行ったのは、私である。銀座にはまだ焼跡があり、四丁目ではアメリカ兵(アメ・ゾル)が交通整理をやっていた。景気よく走っているのはジープだけだった」(澁澤龍彦『私の戦後追想河出文庫、2012年)

 

 澁澤龍彦までが白球を追っていたとは、ビックリです。

 

 

牧久『特務機関長 許斐氏利』ウェッジ、2010

細田昌志『沢村忠に真空を飛ばせた男』新潮社、2020

 

UZIの祖父が許斐(このみ)氏利で、代々名前に「氏」が入るのだとか(Zeebraの祖父が横井英樹みたいな感じか)。

沢村忠の娘が桜っ子クラブだったとは(Zeebraの娘がRIMAみたいな感じか)。

ちなみに戦後日大の総長の座をめぐる内紛に、許斐氏利が仲裁に入った際、世耕弘一や沖永荘兵衛なども関わっていたとか。香ばしい。

 

今日はゼミ説明会など。

(講義関連)アメリカ(7)『アメリカとは何ぞや』とオダサク

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(7)『アメリカとは何ぞや』とオダサク

 

 敗戦後すぐ、フランスの経済学者アンドレジーグフリードの『アメリカとは何ぞや』(伊吹武彦訳、世界文学社、1946年)が出版されます。その訳者紹介には、「東大仏文科卒業、渡仏、現在三高教授」とあります。いうまでもないことですが、「三高」は旧制第三高等学校の略称であり、その後の京都大学教養部、さらには現在の総合人間学部の源流となる学校です。

 この『アメリカとは何ぞや』が小道具として活躍する小説に、織田作之助「それでも私は行く」があります。「夫婦善哉」で知られる織田ですが、この小説は京都の地方紙に連載されたものであり、戦後すぐの先斗町祇園界隈が舞台となっています(1947年には松竹により映画化)。ありがたいことに青空文庫で読めるので、興味ある人は一読してください(https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47287_42544.html)。

 この小説では、主人公である先斗町で育った梶鶴雄(超絶美青年の三高生)と彼をとりまく多くの女性たちとが描かれていますが、織田作之助らしき人物が小説家「小田策之助」として、また伊吹武彦を思わせる「梶鶴雄の学校の山吹正彦という仏蘭西語の教授」も登場し、また世界文学社(中京区寺町通錦角錦ビル)という出版社が実名で登場します。

 以下は伊吹による『アメリカとは何ぞや』の解説からの抜粋です(旧漢字は書き改めましたが、旧仮名遣いはそのまま、太字は原著傍点)。

 

98-9p「今アメリカ軍はわが国に進駐して日夜われわれの生活面に接触してゐる。これらの将兵アメリカの全部を代表してゐるわけでは無論ないが、しかし今われわれの面前に動いてゐるのはまさしくアメリカ国民である。一体アメリカとは何か。いま日本の大衆のアメリカ人を目して西洋人一般と考えてゐるのではあるまいか。アメリカ人は世界において特異な存在でありヨーロツパ人とは根本的に相通じつつしかも大いに異なる国民であることを理解してゐるものが幾人あるであろう。別の角度からいふならば、アメリカと対立してヨーロッパといふ旧き文明が今なほ世界の一角に厳存してゐることを、そしてそれがどんな意義をもつてゐるかを理解してゐるものがどれだけあるであらうか」
99-100p「われわれが目撃するアメリ将兵は実に雑多な人種から成つてゐる。あの黒人は一体アメリカ人なのか。アメリカ人とすればどの程度にアメリカ人であるのか。しかしわれわれはアメリカ人のなかにドイツ系ユダヤ系スラヴ系などおよそ世界各国の人種が混交してゐることを果して正確に知つてゐるであらうか。この書物の第二章「アメリカ民族の形成」は、この問題に対する明快至極な解答である。アメリカはあらゆる人種を包含しつつ、しかも忠誠なる一国民を形成した。われわれはこの驚異の実相に触れねばならぬ。それは一夜漬の英語会話を勉強するよりは遙かに重要な仕事である」

 

次に、以下は「それでも私は行く」からの引用です。

 

「鶴雄は河原町の方へ歩き出した。アンテナをつけたM・Pのジープが通ったあと、三条河原町のゴーストップの信号が青に変った。
 西へ渡って、右側のそろばん屋という妙な名前の本屋へ、鶴雄は何の気なしにはいって行った。」

 

その本屋で『アメリカとは何ぞや』立ち読みしたこと――内心「――なぜこの本がもっと早く出なかったのか。戦争中にこの本が訳されて読まれておれば、日本はばかげた戦争なぞはじめなかっただろうに……」――をきっかけに、梶鶴雄は山吹教授に会いに行こうと思い立ち、世界文学社をたずね、小田策之助と知り合い、二人で喫茶店に入ります。

 

「調理場の隅に備えつけてある短波受信機から、サンフランシスコの音楽放送が甘く聴えていた。小田はしばらくその音楽をききながら、何か考えこんでいた」

 

ついでに繁華街の様子も引いておきます(以前にも、占領期の京都についてふれましたが)。

 

「学生たちがセンター(中心)と言っている三条河原町に夜がするすると落ちて来ると、もとの京宝劇場の、進駐軍専用映画館の、「KYOTO THEATER」の電飾文字の灯りが、ピンク、ブルー、レモンイエローの三色に点滅して、河原町の夜空に瞬きはじめる。
 丁度それと同じ頃だ、キャバレー歌舞伎の入口の提灯に灯りがはいるのは――。
 提灯の色はやはりピンク、ブルー、レモンイエローの三色だ。
 ここはもとアイススケート場だった。
 アイススケート場が出来た頃、朝日会館と並んで、三条河原町の最もハイカラな建物といわれたが、しかし、今そのハイカラな建物に古風な提灯がついている。
 これが京都なのだ、今日の京都だ。
 新しさと古さの奇妙な交錯といえば、キャバレー歌舞伎という名前がそれだ。
 終戦後の京都にいち早く出来た新しい設備は、キャバレーだ。そしていくつかのキャバレーのうち代表的なのは、三条河原町のそれが、しかもこの代表的なキャバレーに選ばれた名は、古風の象徴とでもいうべき「歌舞伎」だった。
 ダンスと歌舞伎――。
 松竹が経営しているとはいうものの、やはり奇妙な対照だった。」

 

 京阪の三条駅がターミナルとして存在感を有していた頃、三条駅から阪急の四条河原町(現京都河原町)駅にかけてのエリアは、まぎれもなく洛中のセンターで、タンゴやジャズなどの戦後風俗と、芸妓さんたちなど古都ならでは風情とが入り乱れ、さらにはMP(military police)が走り回っていたわけです。

 そうした中、大衆は「アメリカ人を目して西洋人一般」としつつ、そして「あの黒人は一体アメリカ人なのか。アメリカ人とすればどの程度にアメリカ人であるのか」とはいぶかしがりつつ、このシリーズの(5)でもふれたように、日々暮らしを立てることに精いっぱいで、「アメリカとは何ぞや」を問うよりも、「それがメシのタネになるか否か」を最優先させて考えていたのでしょう。しかしまた、当時の大衆にとっては、日夜接しているアメリカ兵こそがアメリカであり、それを通してのみアメリカを感じてもいたのでしょう。そうした接触の中で、確とは言語化できないにせよ、また決して一様ではないにせよ、「アメリカとは何か」がこの時期共有されいたのだと思います。

 

 

BSTBSの「MUSIC X(ミュージック・クロス)」、Night Tempoをもっと活かせよ。ガチな音楽番組を期待していたのだが……FANCYLABO、よかったけど。

(講義関連)アメリカ(6)日比谷・有楽町界隈

親バカですが、息子がインスタで公開。この春から、大学二年。映像専攻に進むようで、ともかくがんばれ。

 

【MAD】 大学一年生時に制作した映像作品たち 音源 :『Coward Me』龍崎一 ( DOVA-SYNDROME ) | Instagram

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(6)日比谷・有楽町界隈

 

 皇居のお濠端、日比谷通りに面した第一生命館ビル(現DNタワー21)にGHQ本部が置かれたこともあり、帝国ホテル(高級将校宿舎)、東京宝塚劇場(アニー・パイル劇場)など、日比谷・有楽町界隈の焼け残った建物の多くのは、連合軍に接収されていきます。これが銀座方面だと、百貨店がPXとなったり、米兵向けのキャバレーやダンスホールとなるわけです。

 そうしたビルの多くは、すでにこの世から消滅してしまいました。たとえば、三信ビル(現在は東京ミッドタウン日比谷)。1945年から50年まで、米軍第71通信隊・下士官兵宿舎だったとか。

 

103p「清水が突きとめたのは、日比谷の三信ビルだった。そこは占領軍の政商たちの巣窟だった。そこから直接仕入れることで利幅は飛躍的にあがり、それを大阪の喫茶店やレストランに持ってゆくと、飛ぶように売れた」(佐野眞一編『戦後戦記:中内ダイエーと高度経済成長の時代』平凡社、2006年)

 

 この清水とは、スーパー「ライフ」の創業者、清水信次氏(1926年生まれ)。ライフコーポレーション会長兼CEO時代に著した、清水信次『惜別 さらばアメリカ』(経済界、2009年)では、在日米軍基地撤収、専守防衛国防軍の創設、自衛のためには核兵器保有も辞せず、といった主張を展開しています。

 一方、GHQが駐車場としていた土地(現在はザ・ペニンシュラ東京)に、戦後建てられた日活国際会館(のちの日比谷パークビルヂング)にしても、アメリカンな雰囲気(残り香?)が漂っていたようです。

 

93-4p「当時、グレイハウンドの日本支社は、有楽町にあった日比谷パークビルに入っていました。そのビルには、アメリカの日用品を扱うアメリカン・ファーマシーや、カナダ航空、ヒルトン・ホテルの連絡事務所なども入っていて、まるで外国にいるようでした」(山口さやか・山口誠『「地球の歩き方」の歩き方』新潮社、2009年)

 

 私は1984年から丸の内の東京ビルで働き始めましたが、ランチなどはふらふらと日比谷、有楽町方面にも出かけました。日比谷パークビルのアメリカン・ファーマシー、懐かしい。現在アメリカン・ファーマシーを運営する会社のホームページによると「アメリカンファーマシーの原点は1950年。東京・飯倉坂上にあったアメリカ海軍将校倶楽部の一室にオープンした小さなお店が始まりです。その2年後、有楽町の日活国際会館(現ペニンシュラ・ホテル東京)に移転し、店名を「アメリカンファーマシー」として営業を開始しました。当時のお客様は、外国人が主流で、他店では買えない魅力あふれる輸入商品が並べられ、まさにアメリカの文化をお店で体現していました」とのこと(https://www.tomods.jp/company/ap)。

 田中康夫『POPEYE BOOKS 東京ステディ・デート案内』(マガジンハウス、1988年)でも、新橋から展開するデートコースとして以下のような記述があります。

 

49-50p「昼食の後は、アメリカン・ファーマシーである。『ポパイ』の”グッズ特集”などの時には必ず登場する店である。/もちろん、各種の医薬品がある。なぜか、牡蠣エキスの錠剤は扱っていないけれども、ビタミン剤ならば内外の製品が一堂にズラリ、である。/もっとも、二人でアメリカン・ファーマシーを訪れた目的は、別のところにある。シャンプーや石鹸、オーデコロンが各種、取り揃っているのをチェック。文房具やお菓子が取り揃っているのもチェック。これであった。/特に、友人の持っていない文房具を見つけられるのは、今や、ここしかないと思われる。最近、ようやっと、デートをする相手が見つかったような、『メンズ・ノンノ』や『ホットドッグ・プレス』の読者にふさわしいのが、ソニー・プラザであるならば、空気のようになりつつあるカップルには、アメリカン・ファーマー」

 

 今ではちょっと高級な都市型ドラッグストアくらいになっているのでしょうが、1980年代までのアメリカン・ファーマシーには独特な存在感がありました。

 このように米兵たちの闊歩する有楽町や銀座界隈をテリトリーとする、いわゆる「パンパン」たちの生態を描いた小説が、田村泰次郎肉体の門」(1947年に発表)。またWikipediaの「ラクチョウのお時(ラクチョウのおとき、1928年~没年不詳)」には、「戦後日本の元街娼(パンパン)の通称。マスメディアへの露出を経て、その後の更生によって広く知られるに至った人物。「ラクチョウ」とは東京・有楽町の通称」とあります。また、これに関連した項目として、NHKの朝の連ドラ「ブギウギ – ラクチョウのおミネという人物が登場する(演:田中麗奈)」「メリーさん」などがあがっています。横浜のメリーさんに関しては、多くの書物やドキュメンタリーフィルム参照のこと(映画「ヨコハマメリー」2005年、檀原照和『白い孤影:ヨコハマメリーちくま文庫、2018年、中村高寛ヨコハマメリー:白塗りの老娼はどこへいったのか』河出文庫、2020年)。

 

4月1日、入学式朝の光景。

時計台側から撮ったので、鏡文字になってますが。

(講義関連)アメリカ(5)「アメリカ」をめぐる世代差、温度差

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(5)「アメリカ」をめぐる世代差、温度差

 

 今回はポピュラー・カルチャーと直接関係なくなりますが、まずは長い引用から。著者の上野昂志は、1941年生まれの評論家です。

 

24-5p「占領軍を解放軍と規定した日本共産党のように、一つの観念から別の観念に横滑りしてしまった例は極端としても、『日米会話手帖』を大ベストセラーにした大方の日本人は、観念から解放されて現実に直面するのではなく、たんに現実的になっただけなのだ。現実的であることは、現実に直面することと同じではない。それは、むしろ現実を、利害や打算という角度から無意識に再構成することでおおい隠してしまうのだ。たとえばこんなふうに。

 

 あのとき天皇陛下は、なぜ、最後の一人まで戦えっておっしゃらなかったのかなあ。もってえねえ話だが、おら泣くにゃ泣いたが、やっぱりもう一戦やりたかったなあ。
 親を殺され子を殺され、家を焼かれて、へっ、いまさら毛唐にもみ手をして、へいへいばったの真似ができるもんけえ。これあこのまま納まりっこねえね。騒いだってしかたがねえね。
 しかし、もうこうなったら、どっちにしたって――もう駄目だね。畜生(中略)ええ、畜生、ヤケだ。こうなったらへいへいしたっていいや。戦争にゃ負けたんだから、もうこうなったら奴らに頭を下げて、それでおらなりの敵を討ってやる、あいつらからふんだくってやる、畜生、いくらでもいい気になりやがれ。こっちは顔じゃあ笑って、腹の中であざ笑ってやる。あいつらあ、まあ或る意味でお坊ちゃんだからな、シャクに障るが、しかたがねえ。

 これでね、中国もヘンなことになっちゃって、勝った方の仲間に入ったようなあんばいにゃなったが、これから何年かたってみろ、日本人の方がアメリカから可愛がられるに決まってる。(中略)おら、こうなったらハマにでもいって洗濯屋にでもなろうかと思う。(『戦中派不戦日記』、一部難波改変)

 

 これは、まだ学生だった山田風太郎が、敗戦直後の八月十八日に会った町工場の親父さんから聞かされた怒りともグチともつかぬ話の一節だが、わたしは、これを読むたびにいつも何ともいい難い感慨を覚えて立ち止まる。というのも、この親父さんのなかでは、天皇に最後まで戦えといってほしかったというところから、こうなったら仕方がない、アメリカに頭を下げてふんだくってやるというところまでの変転が、切れ目なく続いているからである。つまり、「徹底抗戦」から「和平」への転換が、まったく転換と意識されずに「自然」に移行してしまっているのだ。そして、その「抗戦」においても「和平」においても、向き合うべき個別の他者としての敵は不在なのである。ならば、そのあと実際に姿を現したアメリカも、現実である以前に、現実的に対処すべき対象であるにすぎない。そして、戦後のほとんどの日本人は、その後、彼がここで話(原文ママ)った通りの道を辿ったのである」(上野昂志『戦後再考』朝日新聞社、1995年)

 

 1922年生まれの小説家・山田風太郎は、医大生の時に敗戦を迎えました。その日記に残されている庶民的リアリズム(もしくはニヒリズム)に対し、大学教授の子で自らも博士後期課程まで進み、『ガロ』から本格的な評論活動を始め上野昂志にとって、「アメリカ」はより思想や理念のレベルで捉えるべき相手だったのでしょう。もしくは60年安保反対闘争の頃、成人を迎えた上野にとって、「アメリカ」は理念として否定すべき対象だったのでしょう。

 青年期に敗戦を迎えた山田と、敗戦時物心ついていない上野との間、敗戦を少年期にむかえた世代に、(2)に登場した小林信彦(1932年生まれ)らがいます。上記町工場の親父さんのように現実的に、もしくは上野のように理念的に「アメリカ」と対峙・対処するのではなく、もっとも多感な時期に、アメリカの映画などポピュラーカルチャー、鬼畜米英、「理想としてのアメリカ(民主主義)」などなどに目まぐるしく接した世代です。

 1932年生まれの小田実の小説『アメリカ』(角川文庫、1976年、原著は1962年発行)の解説には、小田が「ものごころついてから、私の前にはいつでも『アメリカ』があったような気がする……私のこころ、というよりはおそらくからだの奥深いところに『アメリカ』があって、それはたとえば……文部省の発行した『民主主義』という教科書のなかの『アメリカ』、チューインガムを私に投げあたえた『アメリカ』、私のまわりに火焔をもたらし、すべてを焼きつくした『アメリカ』……」と述べたとあります(602p)。こうしたアンビバレントな感情が、小田をして「ベトナムに平和を市民連合(べ平連)」の活動へと駆り立てたのかもしれません。

 しかし、戦争経験を世代論だけで語るのにも無理があり、小林信彦小田実石原慎太郎が同じ1932年生まれだったことを考えると、同様の体験をしていても多様なその後がありうるということでしょう。

 山田風太郎の日記に登場する町工場の親父さんにしても、ただただ現実的な対処を、戦前・戦中・戦後を通じてシームレスにしていたわけではありません。山田風太郎『新装版 戦中派不戦日記』(講談社文庫、2002年)で確認したところ、上野昂志が引かなかった箇所に、以下のようにありました。

 

439-40p「でえてえアメリカなんて女が大きなつらしやがって、男は女の靴紐を結ぶなんて可笑しな国だそうだから、そう日本の女に可愛がられると、日本が大好きになって、駐屯が長くなったりしたらこまる。司令官がもう帰れなんていっても、おらいやだ、おら日本がいい、おら日本に残りますなんてことになったら一大事だ。(中略)男で負けて、日本は女で勝つというもんだ。/こうなると女さまさまだ。うんにゃ、もうそろそろ男の時代がすんで、女の時代が来たのかも知んねえぜ、本当に。……戦争ってものは、どうしたって男の時代だからなあ。思やあ長い間、女もつれえ目をして来たもんだ」

 

 その後、高度経済成長期(=男の時代)に自信を取り戻した日本(の男性)の、アメリカ観の変容についてはまた回を改めて。

 最後に蛇足ながら、中華民国政府とアメリカの蜜月が始まりそうと予測した親父さんの「日本人の方がアメリカから可愛がられるに決まっている」の言には、21世紀の今日から振り返ると、いろいろ感慨深いものがあります。