60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

野茂選手のことなど

 先週土曜の研究会にて、ACジャパンの方のお話をうかがう。もろもろ資料をいただいた中に懐かしい広告があった(1990年の献血キャンペーン)。

 入団1年目の野茂英雄投手は、破竹の勢い。こちらは、疲弊し腐り気味のコピーライター。この仕事を担当したため、生まれて初めて献血をした記憶もある(たしか有楽町の駅前で)。

 帰郷も兼ねて、藤井寺球場の撮影に立ち会った記憶もある。また、唯一ご挨拶させていただいた機会に、新日鉄堺にいらした頃、独身寮入ってらっしゃいましたよね、私あの近くで育ちました、とクソどうでもよい話をして、困惑させた記憶がある(たしか、中垣内祐一選手も、その頃そこに入っていたという噂を聞いたことがある)。

 こちらはその翌年会社をいったん脱走することになるが、野茂選手は世界へと羽ばたいていく。

 近鉄は結構好きな球団だった…というと、かならず鈴木啓示阿波野秀幸の話を振られるが、私にとって近鉄の投手とは、清俊彦と佐々木宏一郎で、打者は永淵洋三、土井正博新井宏昌、それから山本和範師。野茂選手退団のプロセスさえなければ、近鉄好きなままでいられたのに…。

 

 さてACジャパン(当時は公共広告機構)に話を戻して。

 もう最近の心境は、墓場まで持っていくべきこと以外は、もうすべてここに書いておこう!なので、ちょっと書く(さすが30年以上前のことなので、差し障りはあまりないと思う)。

 当時私のいた会社には、公共広告機構担当のA氏がいた。公共広告機構は結構特殊な組織なので、クライアントというわけではないのだが、社としてはそれなりに丁重にご対応すべきところだった。

 よってそのA氏は、営業というわけではない。もと制作者だったらしい。制作管理の部署にいて、公共広告機構のことしかしない人だったが、組織改編で私がいた制作室にやってきた。

 で、室長のお声がけで、公共広告機構へのコンペに参加するチームが組まれ、私も放り込まれるのだが、即製チームだということもあってなんだか妙な雰囲気だった。集められたスタッフは、数年前「桂米朝アイバンク」という名作を作った会社だったので、当初それなりに意欲はあったと思う。しかし、明らかに音を立ててギクシャクしていた。なぜなら、A氏の立ち位置がどうにも定まらないのである。ご本人はクリエイティブ・ディレクターとして振舞いたいようなのだが、集められたディレクターたちはついていく気はなさそう。新人たちはどうしたらよいのかわからない。当然1回目のプレゼンは失敗に終わった。

 これではダメだということで、次のプレゼンにはA氏と入社1,2年生だけで臨むことになる。当然A氏はクリエイティブ・ディレクターとして動くのだが、新人たちですら「この人やばいのでは」という感じ。最後は室長がのりだしてきて、A氏の考えた案、推した案は没となり、他のメンバーで考えた案が制作されることになった。

 しかし、その制作過程においても、A氏のディレクションには皆首をかしげつつ、という感じ。気の弱い私は逃げ遅れてつきあっていたが、アートディレクターもほめてくれたキャッチフレーズを、A氏が勝手に却下、差し替えしたのには、もうつきあいきれんなぁという感じだった。

 だが、社内には他に話し相手もいなさそうなA氏は、時々話しかけにくるし、またプレゼンに誘ってくる。その結果が、野茂投手の献血キャンペーンだった。まぁ、最後にはそこそこ楽しい仕事ができたのだが、A氏の意味不明なボディコピーへのダメ出しには、もう処置なしということで、温厚なベテランのコピーディレクターに泣きつき、対応してもらった。

 あの人は一体何だったんだろうなぁ。

 仕事は唸るほどあったバブル期、公共広告機構一本で過ごしていたA氏。公共広告機構の仕事は、会社にとってはあくまでもボランティアで、一銭の儲けにもならない。社から出向になって向こうの人として動いていたならまだしも、う~ん、理解できない。いろんな噂も聞いた気もするが、さすがにここでは書かない。

 でもまぁ、未曽有の広告好況期、不思議な人がいる余地がまだまだ会社にはあったのだろう。その後、時代は移り、会社も株式上場したので、すべてに近代化が進んだのだと思う(どうせ私の居場所は、遅かれ早かれなくなった)。

 こんなことを書き始めると、いろいろ書きたくなるが、これは故中島らもの「たまらん人々」みたくなっていきそうな危険な道(心配しなくても、あそこまでの筆力はないのだが)。

 

 今日は会議1件。