60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(7)『アメリカとは何ぞや』とオダサク

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(7)『アメリカとは何ぞや』とオダサク

 

 敗戦後すぐ、フランスの経済学者アンドレジーグフリードの『アメリカとは何ぞや』(伊吹武彦訳、世界文学社、1946年)が出版されます。その訳者紹介には、「東大仏文科卒業、渡仏、現在三高教授」とあります。いうまでもないことですが、「三高」は旧制第三高等学校の略称であり、その後の京都大学教養部、さらには現在の総合人間学部の源流となる学校です。

 この『アメリカとは何ぞや』が小道具として活躍する小説に、織田作之助「それでも私は行く」があります。「夫婦善哉」で知られる織田ですが、この小説は京都の地方紙に連載されたものであり、戦後すぐの先斗町祇園界隈が舞台となっています(1947年には松竹により映画化)。ありがたいことに青空文庫で読めるので、興味ある人は一読してください(https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47287_42544.html)。

 この小説では、主人公である先斗町で育った梶鶴雄(超絶美青年の三高生)と彼をとりまく多くの女性たちとが描かれていますが、織田作之助らしき人物が小説家「小田策之助」として、また伊吹武彦を思わせる「梶鶴雄の学校の山吹正彦という仏蘭西語の教授」も登場し、また世界文学社(中京区寺町通錦角錦ビル)という出版社が実名で登場します。

 以下は伊吹による『アメリカとは何ぞや』の解説からの抜粋です(旧漢字は書き改めましたが、旧仮名遣いはそのまま、太字は原著傍点)。

 

98-9p「今アメリカ軍はわが国に進駐して日夜われわれの生活面に接触してゐる。これらの将兵アメリカの全部を代表してゐるわけでは無論ないが、しかし今われわれの面前に動いてゐるのはまさしくアメリカ国民である。一体アメリカとは何か。いま日本の大衆のアメリカ人を目して西洋人一般と考えてゐるのではあるまいか。アメリカ人は世界において特異な存在でありヨーロツパ人とは根本的に相通じつつしかも大いに異なる国民であることを理解してゐるものが幾人あるであろう。別の角度からいふならば、アメリカと対立してヨーロッパといふ旧き文明が今なほ世界の一角に厳存してゐることを、そしてそれがどんな意義をもつてゐるかを理解してゐるものがどれだけあるであらうか」
99-100p「われわれが目撃するアメリ将兵は実に雑多な人種から成つてゐる。あの黒人は一体アメリカ人なのか。アメリカ人とすればどの程度にアメリカ人であるのか。しかしわれわれはアメリカ人のなかにドイツ系ユダヤ系スラヴ系などおよそ世界各国の人種が混交してゐることを果して正確に知つてゐるであらうか。この書物の第二章「アメリカ民族の形成」は、この問題に対する明快至極な解答である。アメリカはあらゆる人種を包含しつつ、しかも忠誠なる一国民を形成した。われわれはこの驚異の実相に触れねばならぬ。それは一夜漬の英語会話を勉強するよりは遙かに重要な仕事である」

 

次に、以下は「それでも私は行く」からの引用です。

 

「鶴雄は河原町の方へ歩き出した。アンテナをつけたM・Pのジープが通ったあと、三条河原町のゴーストップの信号が青に変った。
 西へ渡って、右側のそろばん屋という妙な名前の本屋へ、鶴雄は何の気なしにはいって行った。」

 

その本屋で『アメリカとは何ぞや』立ち読みしたこと――内心「――なぜこの本がもっと早く出なかったのか。戦争中にこの本が訳されて読まれておれば、日本はばかげた戦争なぞはじめなかっただろうに……」――をきっかけに、梶鶴雄は山吹教授に会いに行こうと思い立ち、世界文学社をたずね、小田策之助と知り合い、二人で喫茶店に入ります。

 

「調理場の隅に備えつけてある短波受信機から、サンフランシスコの音楽放送が甘く聴えていた。小田はしばらくその音楽をききながら、何か考えこんでいた」

 

ついでに繁華街の様子も引いておきます(以前にも、占領期の京都についてふれましたが)。

 

「学生たちがセンター(中心)と言っている三条河原町に夜がするすると落ちて来ると、もとの京宝劇場の、進駐軍専用映画館の、「KYOTO THEATER」の電飾文字の灯りが、ピンク、ブルー、レモンイエローの三色に点滅して、河原町の夜空に瞬きはじめる。
 丁度それと同じ頃だ、キャバレー歌舞伎の入口の提灯に灯りがはいるのは――。
 提灯の色はやはりピンク、ブルー、レモンイエローの三色だ。
 ここはもとアイススケート場だった。
 アイススケート場が出来た頃、朝日会館と並んで、三条河原町の最もハイカラな建物といわれたが、しかし、今そのハイカラな建物に古風な提灯がついている。
 これが京都なのだ、今日の京都だ。
 新しさと古さの奇妙な交錯といえば、キャバレー歌舞伎という名前がそれだ。
 終戦後の京都にいち早く出来た新しい設備は、キャバレーだ。そしていくつかのキャバレーのうち代表的なのは、三条河原町のそれが、しかもこの代表的なキャバレーに選ばれた名は、古風の象徴とでもいうべき「歌舞伎」だった。
 ダンスと歌舞伎――。
 松竹が経営しているとはいうものの、やはり奇妙な対照だった。」

 

 京阪の三条駅がターミナルとして存在感を有していた頃、三条駅から阪急の四条河原町(現京都河原町)駅にかけてのエリアは、まぎれもなく洛中のセンターで、タンゴやジャズなどの戦後風俗と、芸妓さんたちなど古都ならでは風情とが入り乱れ、さらにはMP(military police)が走り回っていたわけです。

 そうした中、大衆は「アメリカ人を目して西洋人一般」としつつ、そして「あの黒人は一体アメリカ人なのか。アメリカ人とすればどの程度にアメリカ人であるのか」とはいぶかしがりつつ、このシリーズの(5)でもふれたように、日々暮らしを立てることに精いっぱいで、「アメリカとは何ぞや」を問うよりも、「それがメシのタネになるか否か」を最優先させて考えていたのでしょう。しかしまた、当時の大衆にとっては、日夜接しているアメリカ兵こそがアメリカであり、それを通してのみアメリカを感じてもいたのでしょう。そうした接触の中で、確とは言語化できないにせよ、また決して一様ではないにせよ、「アメリカとは何か」がこの時期共有されいたのだと思います。

 

 

BSTBSの「MUSIC X(ミュージック・クロス)」、Night Tempoをもっと活かせよ。ガチな音楽番組を期待していたのだが……FANCYLABO、よかったけど。

(講義関連)アメリカ(6)日比谷・有楽町界隈

親バカですが、息子がインスタで公開。この春から、大学二年。映像専攻に進むようで、ともかくがんばれ。

 

【MAD】 大学一年生時に制作した映像作品たち 音源 :『Coward Me』龍崎一 ( DOVA-SYNDROME ) | Instagram

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(6)日比谷・有楽町界隈

 

 皇居のお濠端、日比谷通りに面した第一生命館ビル(現DNタワー21)にGHQ本部が置かれたこともあり、帝国ホテル(高級将校宿舎)、東京宝塚劇場(アニー・パイル劇場)など、日比谷・有楽町界隈の焼け残った建物の多くのは、連合軍に接収されていきます。これが銀座方面だと、百貨店がPXとなったり、米兵向けのキャバレーやダンスホールとなるわけです。

 そうしたビルの多くは、すでにこの世から消滅してしまいました。たとえば、三信ビル(現在は東京ミッドタウン日比谷)。1945年から50年まで、米軍第71通信隊・下士官兵宿舎だったとか。

 

103p「清水が突きとめたのは、日比谷の三信ビルだった。そこは占領軍の政商たちの巣窟だった。そこから直接仕入れることで利幅は飛躍的にあがり、それを大阪の喫茶店やレストランに持ってゆくと、飛ぶように売れた」(佐野眞一編『戦後戦記:中内ダイエーと高度経済成長の時代』平凡社、2006年)

 

 この清水とは、スーパー「ライフ」の創業者、清水信次氏(1926年生まれ)。ライフコーポレーション会長兼CEO時代に著した、清水信次『惜別 さらばアメリカ』(経済界、2009年)では、在日米軍基地撤収、専守防衛国防軍の創設、自衛のためには核兵器保有も辞せず、といった主張を展開しています。

 一方、GHQが駐車場としていた土地(現在はザ・ペニンシュラ東京)に、戦後建てられた日活国際会館(のちの日比谷パークビルヂング)にしても、アメリカンな雰囲気(残り香?)が漂っていたようです。

 

93-4p「当時、グレイハウンドの日本支社は、有楽町にあった日比谷パークビルに入っていました。そのビルには、アメリカの日用品を扱うアメリカン・ファーマシーや、カナダ航空、ヒルトン・ホテルの連絡事務所なども入っていて、まるで外国にいるようでした」(山口さやか・山口誠『「地球の歩き方」の歩き方』新潮社、2009年)

 

 私は1984年から丸の内の東京ビルで働き始めましたが、ランチなどはふらふらと日比谷、有楽町方面にも出かけました。日比谷パークビルのアメリカン・ファーマシー、懐かしい。現在アメリカン・ファーマシーを運営する会社のホームページによると「アメリカンファーマシーの原点は1950年。東京・飯倉坂上にあったアメリカ海軍将校倶楽部の一室にオープンした小さなお店が始まりです。その2年後、有楽町の日活国際会館(現ペニンシュラ・ホテル東京)に移転し、店名を「アメリカンファーマシー」として営業を開始しました。当時のお客様は、外国人が主流で、他店では買えない魅力あふれる輸入商品が並べられ、まさにアメリカの文化をお店で体現していました」とのこと(https://www.tomods.jp/company/ap)。

 田中康夫『POPEYE BOOKS 東京ステディ・デート案内』(マガジンハウス、1988年)でも、新橋から展開するデートコースとして以下のような記述があります。

 

49-50p「昼食の後は、アメリカン・ファーマシーである。『ポパイ』の”グッズ特集”などの時には必ず登場する店である。/もちろん、各種の医薬品がある。なぜか、牡蠣エキスの錠剤は扱っていないけれども、ビタミン剤ならば内外の製品が一堂にズラリ、である。/もっとも、二人でアメリカン・ファーマシーを訪れた目的は、別のところにある。シャンプーや石鹸、オーデコロンが各種、取り揃っているのをチェック。文房具やお菓子が取り揃っているのもチェック。これであった。/特に、友人の持っていない文房具を見つけられるのは、今や、ここしかないと思われる。最近、ようやっと、デートをする相手が見つかったような、『メンズ・ノンノ』や『ホットドッグ・プレス』の読者にふさわしいのが、ソニー・プラザであるならば、空気のようになりつつあるカップルには、アメリカン・ファーマー」

 

 今ではちょっと高級な都市型ドラッグストアくらいになっているのでしょうが、1980年代までのアメリカン・ファーマシーには独特な存在感がありました。

 このように米兵たちの闊歩する有楽町や銀座界隈をテリトリーとする、いわゆる「パンパン」たちの生態を描いた小説が、田村泰次郎肉体の門」(1947年に発表)。またWikipediaの「ラクチョウのお時(ラクチョウのおとき、1928年~没年不詳)」には、「戦後日本の元街娼(パンパン)の通称。マスメディアへの露出を経て、その後の更生によって広く知られるに至った人物。「ラクチョウ」とは東京・有楽町の通称」とあります。また、これに関連した項目として、NHKの朝の連ドラ「ブギウギ – ラクチョウのおミネという人物が登場する(演:田中麗奈)」「メリーさん」などがあがっています。横浜のメリーさんに関しては、多くの書物やドキュメンタリーフィルム参照のこと(映画「ヨコハマメリー」2005年、檀原照和『白い孤影:ヨコハマメリーちくま文庫、2018年、中村高寛ヨコハマメリー:白塗りの老娼はどこへいったのか』河出文庫、2020年)。

 

4月1日、入学式朝の光景。

時計台側から撮ったので、鏡文字になってますが。

(講義関連)アメリカ(5)「アメリカ」をめぐる世代差、温度差

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(5)「アメリカ」をめぐる世代差、温度差

 

 今回はポピュラー・カルチャーと直接関係なくなりますが、まずは長い引用から。著者の上野昂志は、1941年生まれの評論家です。

 

24-5p「占領軍を解放軍と規定した日本共産党のように、一つの観念から別の観念に横滑りしてしまった例は極端としても、『日米会話手帖』を大ベストセラーにした大方の日本人は、観念から解放されて現実に直面するのではなく、たんに現実的になっただけなのだ。現実的であることは、現実に直面することと同じではない。それは、むしろ現実を、利害や打算という角度から無意識に再構成することでおおい隠してしまうのだ。たとえばこんなふうに。

 

 あのとき天皇陛下は、なぜ、最後の一人まで戦えっておっしゃらなかったのかなあ。もってえねえ話だが、おら泣くにゃ泣いたが、やっぱりもう一戦やりたかったなあ。
 親を殺され子を殺され、家を焼かれて、へっ、いまさら毛唐にもみ手をして、へいへいばったの真似ができるもんけえ。これあこのまま納まりっこねえね。騒いだってしかたがねえね。
 しかし、もうこうなったら、どっちにしたって――もう駄目だね。畜生(中略)ええ、畜生、ヤケだ。こうなったらへいへいしたっていいや。戦争にゃ負けたんだから、もうこうなったら奴らに頭を下げて、それでおらなりの敵を討ってやる、あいつらからふんだくってやる、畜生、いくらでもいい気になりやがれ。こっちは顔じゃあ笑って、腹の中であざ笑ってやる。あいつらあ、まあ或る意味でお坊ちゃんだからな、シャクに障るが、しかたがねえ。

 これでね、中国もヘンなことになっちゃって、勝った方の仲間に入ったようなあんばいにゃなったが、これから何年かたってみろ、日本人の方がアメリカから可愛がられるに決まってる。(中略)おら、こうなったらハマにでもいって洗濯屋にでもなろうかと思う。(『戦中派不戦日記』、一部難波改変)

 

 これは、まだ学生だった山田風太郎が、敗戦直後の八月十八日に会った町工場の親父さんから聞かされた怒りともグチともつかぬ話の一節だが、わたしは、これを読むたびにいつも何ともいい難い感慨を覚えて立ち止まる。というのも、この親父さんのなかでは、天皇に最後まで戦えといってほしかったというところから、こうなったら仕方がない、アメリカに頭を下げてふんだくってやるというところまでの変転が、切れ目なく続いているからである。つまり、「徹底抗戦」から「和平」への転換が、まったく転換と意識されずに「自然」に移行してしまっているのだ。そして、その「抗戦」においても「和平」においても、向き合うべき個別の他者としての敵は不在なのである。ならば、そのあと実際に姿を現したアメリカも、現実である以前に、現実的に対処すべき対象であるにすぎない。そして、戦後のほとんどの日本人は、その後、彼がここで話(原文ママ)った通りの道を辿ったのである」(上野昂志『戦後再考』朝日新聞社、1995年)

 

 1922年生まれの小説家・山田風太郎は、医大生の時に敗戦を迎えました。その日記に残されている庶民的リアリズム(もしくはニヒリズム)に対し、大学教授の子で自らも博士後期課程まで進み、『ガロ』から本格的な評論活動を始め上野昂志にとって、「アメリカ」はより思想や理念のレベルで捉えるべき相手だったのでしょう。もしくは60年安保反対闘争の頃、成人を迎えた上野にとって、「アメリカ」は理念として否定すべき対象だったのでしょう。

 青年期に敗戦を迎えた山田と、敗戦時物心ついていない上野との間、敗戦を少年期にむかえた世代に、(2)に登場した小林信彦(1932年生まれ)らがいます。上記町工場の親父さんのように現実的に、もしくは上野のように理念的に「アメリカ」と対峙・対処するのではなく、もっとも多感な時期に、アメリカの映画などポピュラーカルチャー、鬼畜米英、「理想としてのアメリカ(民主主義)」などなどに目まぐるしく接した世代です。

 1932年生まれの小田実の小説『アメリカ』(角川文庫、1976年、原著は1962年発行)の解説には、小田が「ものごころついてから、私の前にはいつでも『アメリカ』があったような気がする……私のこころ、というよりはおそらくからだの奥深いところに『アメリカ』があって、それはたとえば……文部省の発行した『民主主義』という教科書のなかの『アメリカ』、チューインガムを私に投げあたえた『アメリカ』、私のまわりに火焔をもたらし、すべてを焼きつくした『アメリカ』……」と述べたとあります(602p)。こうしたアンビバレントな感情が、小田をして「ベトナムに平和を市民連合(べ平連)」の活動へと駆り立てたのかもしれません。

 しかし、戦争経験を世代論だけで語るのにも無理があり、小林信彦小田実石原慎太郎が同じ1932年生まれだったことを考えると、同様の体験をしていても多様なその後がありうるということでしょう。

 山田風太郎の日記に登場する町工場の親父さんにしても、ただただ現実的な対処を、戦前・戦中・戦後を通じてシームレスにしていたわけではありません。山田風太郎『新装版 戦中派不戦日記』(講談社文庫、2002年)で確認したところ、上野昂志が引かなかった箇所に、以下のようにありました。

 

439-40p「でえてえアメリカなんて女が大きなつらしやがって、男は女の靴紐を結ぶなんて可笑しな国だそうだから、そう日本の女に可愛がられると、日本が大好きになって、駐屯が長くなったりしたらこまる。司令官がもう帰れなんていっても、おらいやだ、おら日本がいい、おら日本に残りますなんてことになったら一大事だ。(中略)男で負けて、日本は女で勝つというもんだ。/こうなると女さまさまだ。うんにゃ、もうそろそろ男の時代がすんで、女の時代が来たのかも知んねえぜ、本当に。……戦争ってものは、どうしたって男の時代だからなあ。思やあ長い間、女もつれえ目をして来たもんだ」

 

 その後、高度経済成長期(=男の時代)に自信を取り戻した日本(の男性)の、アメリカ観の変容についてはまた回を改めて。

 最後に蛇足ながら、中華民国政府とアメリカの蜜月が始まりそうと予測した親父さんの「日本人の方がアメリカから可愛がられるに決まっている」の言には、21世紀の今日から振り返ると、いろいろ感慨深いものがあります。

 

(講義関連)アメリカ(4)FENを聴いた人たち

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(4)FENを聴いた人たち

 

 戦後日本の音楽シーンに対して米軍ラジオ放送FEN(極東放送網、現AFN)が与えた影響については、多くの人々が語っています。大瀧詠一はっぴいえんど小林克也(1941年生まれ、福山で育ち、岩国基地からの放送を聴く)などなど(塚田修一「米軍基地文化としての米軍ラジオ放送FEN:音楽関係者の聴取経験と実践を中心に」『三田社会学』26、2021年参照)。FEN村上春樹作品にもよく出てきます。しかし、以下の「村上RADIO」に関しては、どうなんでしょう。

 

https://www.tfm.co.jp/murakamiradio/index_20190616.html
僕が同時代的に初めて聴いたビートルズの曲は、実はこの「プリーズ・プリーズ・ミー」なんです。僕はこのとき14歳くらいだったんだけど、たしか米軍放送のFEN(Far East Network)で聴いて、「これはすごい」と一発で思いました。何がどうすごかったか?それはよくわかりません。
そのときもよくわからなかったし、今でもまだよくわからない。ただ「この音楽の響きはこれまでにはなかったものだ」ということだけはきっぱりと確信できました。それが僕のビートルズの音楽に対する第一印象でした。「これから新しい世界が始まるんだ」みたいな、わくわくした気分がありました。それは、ビーチボーイズの「サーフィンUSA」を初めて聴いたときにも感じたことです。実際に時代が大きく動いていたんでしょうね。

 

 阪神間で育った村上少年。14歳と言えば、1963年あたりでしょうか。Wikipediaには「FEN切り替え当初の1952年7月時点では、東京、大阪、名古屋、美保、小倉、福岡、大分、熊本、佐世保、八戸、仙台、札幌の12局で構成されていたが、増減を繰り返し、1955年の21局体制を経たのち、1958年3月時点では、東京、名古屋、福岡(板付)、岩国、千歳、佐世保、芦屋、三沢、稚内の9局で放送されていた」とあります。この芦屋は、福岡県遠賀郡芦屋町のことなので、短波放送で聴いたということなのでしょうか。

 まぁ、それはおいといて、戦後ある時期までは大阪でも米軍放送が聴けたことはたしかでしょう。

 

82p「戦争が終わった昭和二十年(一九四五)九月から進駐軍の放送が一般の日本人にも聴けるようになりました。コールサインはWVTRが東京で、WVTQが大阪やったかな。進駐軍の放送で、アメリカの音楽がじゃんじゃん入ってきました。私と同年配の少年たちの中には、進駐軍のラジオを通じてジャズに親しんでいた人も多かったみたいです。みんな進駐軍放送でジャズに開眼します」
91p「昭和二十八年(一九五三)、心斎橋の百貨店のそごうが進駐軍に接収されて、PXになって、兵隊たちの買い物の場所になってました。サンフランシスコ講和条約が発効して、そごうが久しぶりに開業します。そこにレコード部ができてね、アメリカのレコード輸入して置いてたんです」(肥田晧三『再見なにわ文化』和泉書院、2019年)

 

 さすが「なにわの生き字引」、肥田節炸裂といったところでしょう。当時の大阪ミナミのキャバレー、ダンスホールにビッグバンドが出演していた様子も語られています。

 あと、本籍ジャガー星という設定のジャガーさんも、千葉で育った少年時代

 

32p「家の前の田んぼが凍ったらそこで下駄を履いてスケートの真似事みたいなことをして遊んだり、山で栗や柿、あけびや桑の実を採って楽しく暮らしていた。しかも当時のジャガーFEN(現AFN)という米軍のラジオ放送を聴くことに熱中した。そこからアメリカの最新の洋楽が流れてくる。見よう見まねでハーモニカやアコーディオンを触り出したのもこの頃だ」(『ジャガー自伝:みんな元気かぁ~~い?』イースト・プレス、2021)

 

だそう。70年代グラムな方かと思っていましたが、50年代ポップスなどが原風景なのかも。ジャガーさん喜寿は越えて、もうすぐ傘寿のご様子。そんなお祝いの慣習、ジャガー星にはないのだろうけど。

 

 

今日も授業準備や面談など。

(講義関連)アメリカ(3)古都・京都も、港町・神戸も。

そういえば、ゼミ卒業生ネタでこんなのもあった、あった。皆活躍を祈念。

 

カンテレ“入社予定”アナウンサー、入社前に異例のレギュラー決定 フット後藤は絶賛「ちゃんとしてるで」 | ORICON NEWS

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(3)古都・京都も、港町・神戸も。

 

 授業では占領期の大阪についてはふれるので、ここでは京都・神戸についての文献案内など。

 まずはベストセラーとなった、井上章一『京都ぎらい』(朝日新書、2015年)から。

 

100p「京都にも、新しさのかがやきをしめすところが、ないわけではない。たとえば、植物園の北側、北山通りぞいの界隈が、その例にあげられる。…このあたりがそういうエリアとなった背景には、京都の戦後史もひそんでいる。敗戦後の京都を管理した占領軍には、植物園の敷地が住区としてあたえられた。一九四五年以後、同園には連合軍側の宿舎が、たちならぶこととなる。東京で言えば、渋谷のワシントンハイツにあたる一帯となった。/そこでくらす占領軍の人々をあてこんだ店も、北山通りにはあらわれだす。当時の日本人には手の出にくい洋風のぜいたくな商品も、売られるようになった」

 

 京都(というよりは洛中)の保守性、旧弊を嫌う本ゆえ、例外的な場所として北山一帯が言及されているわけですが、現京都府立植物園がかつてOff limits to Japaneseなエリアとなっていました。京都で育った西川祐子(『古都の占領:生活史からみる京都 1945-1952』平凡社、2017年)は、そこに漫画「ブロンディ」の世界が広がっていると想像していました(岩本茂樹『憧れのブロンディ:戦後日本のアメリカニゼーション』新曜社、2007年)。そのほか、目についた範囲では、大内照雄『米軍基地下の京都1945~1958年』(文理閣、2017年)、大場修『占領下日本の地方都市:接収された住宅・建築と都市空間』(思文閣出版、2021年)など。司令部のおかれた大建ビル(現COCON KARASUMA)や祇園甲部歌舞練場から、深草、藤森、大久保、祝園などなど、空襲にあわなかった京都は、占領期および朝鮮戦争期、軍都でもありました。ちなみに、現在近畿で唯一の米軍施設は、京丹後市にあります。

 次いで、神戸。市の中心部に目をやると、

 

112p「中央区には、三宮から元町を中心に居留地の焼け残った近代建築が接収され、神港ビルディングに神戸基地司令部、三宮南には複数部隊の駐留したイースト・キャンプが置かれたほか、神戸港関連施設も立入禁止とされ、百貨店や山手のホテル(旧トアホテル、富士ホテル等)や個人住宅、公共施設など数々の接収物件が密集した。また、兵庫区東部の新開地には、黒人兵の駐留したキャンプ・カーバーの設営、劇場・映画館であった聚楽館の接収、神戸駅南に貨物専用モータープールの設置などが見られた」(村上しほり「神戸・阪神間における占領と都市空間」小林宣之・玉田浩之編『占領期の都市空間を考える』水声社、2020年)

 

 米軍内での人種の分離の様子が興味深いです。現在神戸大学の六甲台第二キャンパスには「六甲ハイツ」がおかれ、西宮・芦屋や垂水ジェームス山などの洋風建築、さらには甲子園球場なども接収されていました。

 最後に神戸市に生まれた横山ノック(1932~2007年)への、上岡龍太郎の有名な弔辞を引いておきます(YouTubeなどでも閲覧可能)。

 

「…六甲のベースキャンプ、ハウスボーイ時代にはサミーと呼ばれ、宝塚新芸座では三田久と名乗り(略)漫才師から参議院議員大阪府知事、最後は被告人にまでなったノックさん。(略)進駐軍仕込みの英語が堪能だったノックさん、そのくせカタカナが苦手だったノックさん…」

 

 ちなみに横山ノックの本名は山田勇。「いさむ」からとられたサミーでした。接収されていた西宮の甲子園ホテル(現武庫川女子大)でも働いていたとか。

 さらにちなみに、コロボックル・シリーズで有名な童話作家佐藤さとるは、旭川や横須賀でのボーイ時代、「オウリィ」と呼ばれていたとか。

 

203p「英語のRの発音は日本人には大変むずかしい。ところが世間ではあまり知られていないが、日本語のRも、アメリカ人にとってはむずかしいのだ。たとえば、ローマ字で書いた「KAMAKURA」(カマクラ)を、米兵たちは「カマキュア」に近い発音で読む。このときの軍曹も、やはりサトルがうまく読めずに何度も口の中で繰り返した。/とっさにぼくはメモ用紙を返してもらい、『SATORU』を二本線で消すと、かわりに、『OWLY』と書いた。軍曹が不思議そうな目で見返したので、ぼくは自分の鼻を指差して、「ニックネーム」といい、あのミスター・ジャッキーがやったように、「フーフー」と鳴き真似をしながら、両手の掌を翼のようにひらひらさせた」(佐藤さとる『オウリィと呼ばれたころ:終戦をはさんだ自伝物語』理論社、2014年)

 

 ややからかいの意味を含むあだ名ですが、佐藤少年には米兵相手に便利な通り名だったようです。ちなみにサトウは「SATOW」と綴ると、「慣れればアメリカ人にもきれいに発音できる」とのこと。

 

(講義関連)アメリカ(2)「奥さまは魔女」以前・以後

【緊急告知】4月4日にゼミ卒業生の堀井綾香監督作品が上映決定!

第七藝術劇場/作品/MOOSIC LAB 2024

 

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(2)「奥さまは魔女」以前・以後

 

 前回述べたように、この春学期は「ポピュラー・カルチャー論」という講義科目を担当しており、その補遺というか、授業にあまり組み込めなかったネタを、備忘のために書いていくシリーズの2回目です。

 テーマはアメリカ産のテレビ番組に関してなのですが、あいにくこちらは1961年生まれで、物心ついた頃から家にテレビ(当然モノクロ)はありましたが、アメリカ産テレビドラマの全盛期(1960年前後)のことは記憶にありません。アニメで言えば、「ポパイ」(日本での放送は1959~65年)や「トムとジェリー」(日本公開は1964年~)、「マイティ・ハーキュリー」(1963~66年カナダ、日本でも同時期に放送)などがかすかに記憶に残っている程度です。ディズニーはテレビでの印象はあまりなく、映画でアニメ「101匹わんちゃん」、実写「フラヴァ」「テニス靴をはいたコンピュータ」あたりの記憶のみです。

 昭和の子ども一括りにされ、小さい時からディズニーをテレビで観てたとか、手塚治虫(以下敬称略)が好きだとか思われがちですが、もっとも多感だった頃、ディズニーも手塚も低調期だったためか、両者への思い入れは非常に薄いです(またマーベルやDCコミックスも同様)。馬場康夫(1954年生まれ)のようにTVシリーズ「ディズニーランド」(1958年放送開始、本国では1954年から)への熱い想いはないです(ホイチョイ・プロダクションOTVダイヤモンド社、1985年、馬場康夫『ディズニーランドが日本に来た!:「エンタメ」の夜明け』講談社、2013年)。

 草創期から1960年代にかけてのテレビ番組、昭和のお笑いなどについては、博覧強記の作家・小林信彦(かつては放送作家であり、当時の送り手側でもあった)の証言がもっとも克明だと思います。

 

小林信彦『テレビの黄金時代』文藝春秋、2002年
28-9p「ルシール・ポールという女優はハリウッドでそこそこの位置にいたコメディエンヌで、ジーン・ケリーボブ・ホープと共演していたが、四十になることもあってか、夫のデジ・アーネズと組んでテレビに進出することにした。/二人でプロダクションを作り、製作・共演で一九五一年秋からスタートしたのが「アイ・ラブ・ルーシー」である。/日本(NHK)での放送スタートは一九五七年の春からで、ずいぶん遅いが、当時はこの程度のずれはふつうだった。/ぼくはたまに観る程度だったが、こんなに単純なものかと思った。アメリカ人が面白がるものは、必ずしも日本人には面白くない――その好例である。/しっかりしているようでどじなルーシーは夫のリッキー(デジ・アーネズ)とニューヨークのアパートに住んでいる。夫の職業はバンドリーダー。映画のころからスラップスティック演技が得意だったルーシーは、夫やアパートの隣人を相手に大さわぎを見せる。歌も踊りも得意である。/「アイ・ラブ・ルーシー」はアメリカで十年間つづき、テレビの〈シチュエーション・コメディ〉の基本形を作った。長さは三十分、同じセットを使用というパターンで、たまにスぺシャル・ゲストが出る。終始無言のハーポ・マルクスが出演した時は、おしゃべりのルーシーもそれなりに対応した。アメリカでは空前のヒットとなり、彼女のプロダクションは他のテレビ番組まで製作するまでになった。/デジ・アーネズと離婚したあとは、実の息子と娘を加えて「ルーシー・ショー」と題名を変え、一九七四年まで続いた。/「アイ・ラブ・ルーシー」は実の夫婦が演じているというニュースは日本でも知られていたから、「わが輩ははなばな氏」のフランキー堺夫婦の共演はそこに発想のヒントを得ていると思う。べつに悪いことではない」
(※堺のパートナーは日劇の花形ダンサーだった谷さゆり。太字は原著では傍点)

29-30p「「ヒッチコック劇場」は一回目から観て、テレビを莫迦にしているとひどい目にあうぞ、と思った。/これは現在、ビデオで観られるが、四回目の「生と死の間」は、ジョセフ・コットン主演、ヒッチコック演出で、息をのむ出来であった。番組のアメリカでの放送は一九五五年十月からだから、時差は二年もない。…この年、日本テレビから放送された刑事ドラマ「ドラグネット」は、ジャック・ウェッブという役者が主演で、まず、おどかすようなテーマ曲で知られた。このテーマ曲はいまでも駐留軍放送などで唐突に使われるが、ドラマのテーマ曲を超えて、〈おどろおどろしいもの〉を意味するようになった」

 

 フランキー堺(1929~96年)といっても、今の大学生にとっては???でしょうが、本名は堺正俊、戦後ドラマーとして米軍基地を回り、役者へと転身していったため、ジャズマン時代からのフランキーを芸名としました。「はなばな氏」という番組は初耳ですが、こんな風に日米のコンテンツのタイムラグが縮まっていき、テレビドラマ(シチュエーション・コメディ)「奥さまは魔女」の場合は、日本で2年遅れの1966年から始まっています。

 というわけで「奥さまは魔女(原題Bewitched)」は、はっきりと記憶に残っています。その後も「刑事コロンボ」「大草原の小さな家」から「セックス・アンド・ザ・シティ」「グリー」に至るまで、日本でも多くのヒット作はありますが、「奥さまは魔女」以上に印象に残った海外ドラマはありませんでした。その後、ドラマ「MAD MEN」シリーズで上書きされるまでは、私にとってアメリカのアドマン(広告業界人)と言えば、ダーリンでした。

 その後2000年代に日本でもリメイク・ドラマ化されましたが、魔女のパートナーは広告代理店社員という設定は守られており、原田泰造演じるイラブ広告の松井譲二として登場しています。このドラマでは、役名が日本人メジャーリーガーからとられており、松井・新庄・野茂・木田・田口などが登場します。「イラブ広告」も故伊良部秀輝投手に由来します。沖縄出身の伊良部選手は、いわゆるアメラジアンアメリカとアジア系のハーフないしダブル)であり、死去の地もロサンゼルスでした。

 最後に小林信彦に話を戻しますが、小林・青島幸男永六輔はともに戦前(小林・青島は1932年、永はその翌年生まれ)の東京下町(浅草・日本橋)で生まれ育ち、戦前からアメリカのアニメや映画などに親しんだ世代です。少し年上のフランキー堺植木等井原高忠日本テレビ)、渡辺晋渡辺プロダクション)などのように米軍基地でバンド演奏して稼いだ経験はないものの、占領期に多感な時期を過ごした人々が、1960年代、テレビの黄金期を支えていくことになります。

 それから余談ながら小林信彦実弟小林泰彦は、1960~70年代、イラストレーターとしてアメリカの最新若者ファッションを日本に紹介する役割を果たします。

 

 

先の日曜の写真。学園花通りは5分咲き程度か…

 

川上幸之介『パンクの系譜学』書肆侃侃房、2024

(講義関連)アメリカ(1)そもそも「ポピュラー(popular)」とは。

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(1)そもそも「ポピュラー(popular)」とは

 

 私は現在、本務校にて「ポピュラー・カルチャー論」と「広告文化論」という講義科目を担当しています。

 今回はまず、春学期担当の「ポピュラー・カルチャー」について。

 “popular”を英英辞書で引くと、➀liked by a lot of people、②done by a lot of people in a society, group etc.、③relating to ordinary people, or intended for ordinary peopleと出てきます。訳語で言えば「人気のある」「大衆的な」といったあたりでしょうか。

 ポピュラー・カルチャーの類義語としては、fork cultureやmass cultureなどがありますが、fork cultureと言うと、一時の人気というよりは、その社会においてより基層にある文化、mass cultureと言うと、mass production(大量生産)・mass consumption(大量消費)と分かちがたく結びついたmass mediaによって媒介される文化といった意味あいが強くなってきます。もちろんこれらの語と重複する部分は大きいですが、ポピュラー・カルチャーと言った場合は、フォーク・カルチャーよりは流動的・可変的で、マス・カルチャーよりは多様性や、送り手・受け手間の相互作用性(interactivity)といったニュアンスを帯びてきます。

 まぁ非常にザックリとした概念なので、何を論じても「ポピュラー・カルチャー論」になるわけですが、何らかの軸を設けずに14回の授業を行うのもアラカルトに過ぎるので、「アメリカ」にこだわって話を進めていければと考えています。もちろん、他の視点からポピュラー・カルチャーを論じることも可能だし、ポピュラー・カルチャーへのアプローチの仕方は人それぞれでいいのですが、戦後日本社会に与えたアメリカ(出自の文化)の影響力の大きさを考えれば、今学期の試みも無意味ではないと私は考えています。

 もちろん、アメリカといっても漠然としており、アメリカ合衆国(USA)一つをとっても非常に多面的な存在です。「アメリカ」を指して、パックス・アメリカーナと言われるような国際的な外交上・軍事上の秩序をイメージする人もいれば、依然としてフォーディズムなど物質的な豊かさ、大量消費社会を想起する人もいる、GAFAなどのプラットフォームに代表される経済的もしくはテクノロジーでの先進性、基軸通貨としてのドルによる金融面での優位性、リングワ・フランカとしての米語のパワー、ハリウッドなどコンテンツ・ビジネスや音楽・スポーツなどエンタテインメント・ビジネスのメッカ……。もちろんさまざまな負の側面もありつつも、そしてかつてのソ連や現在の中国のようにライバル的な存在はありつつも、いずれにせよ、グローバル・スタンダードな地位を占め続け、とりわけ日本に対して「アメリカ」は、陰に陽に圧倒的な影響を及ぼし続けてきました。

 それゆえ、日本の言説空間において、またポピュラー・カルチャー(のコンテンツ)において「アメリカとは何か」は大きなテーマとしてあり続けました。ただし、ここで考えたいのは、論壇や知識人の間での「アメリカ」問題というよりは、戦後日本社会におけるポピュラーなアメリカ性(Americanness)についてです。言語化されないけれども、より一般的な人々(ordinary people)の間で共有、共感されているアメリカ(的なるもの)についてです。何がアメリカかは言語化・明示化されていなくても、個別の事象に対して直感的に「アメリカ的/非アメリカ的」と弁別されていくような感覚・感性の集合的なありようです。このレベルのアメリカは、その捉えどころのなさゆえに、あまり真正面から論じられてきたとは言い難いです。でも、政府の統計が示すように、なぜこの社会において人々はアメリカに親近感を抱いてきたのか、そしてその傾向がますます強まっているのはなぜなのか(https://survey.gov-online.go.jp/index-gai.html)。

 話が抽象的に過ぎるので、一つ具体例を出しておきます。

 2024年の年頭、「街録ch」というYouTubeチャンネルにおいて、田代まさし氏がロングインタビューを受けています(以下、敬称略)。街録chのディレクターの方針として、ただひたすらその人の話を聞くというコンテンツなので、話の真偽など取扱注意の部分もありますが、田代のデビューまでの時期の回顧談に関しては、あえて歪曲や詐話を行う必然性もなく、おおむねそのまま受け取って差し支えなさそうです。

 1956年に生まれ、新宿界隈で育った田代は、中学生の頃からディスコに通い始め、地元の先輩にソウルブラザーズ(クック・ニック&チャッキーズ)がいたこともあって、ソウルやR&Bなどブラック・ミュージックに魅かれていきます(ジェームス・ブラウンやジャクソン5の名があがっていました)。高校では鈴木雅之と知り合い、バンドを結成し、ソウルナンバーのカバーを始めます。そしてコンテストをきっかけにメジャーデビューを果たし、ブラック・ミュージックへのリスペクトで始めた黒塗りスタイルで人気を博しますが、ミンストレル・ショー(黒人に対する人種差別的色彩の強い軽演劇)を連想させるところもあったためか、ブラックフェイスの演出はやがてされなくなり、バンドも1980年代半ばから休止状態に入ります。しかし、ドゥワップなど往年の黒人コーラスグループのスタイルをふまえつつ、広範な人気を獲得したことで、1950~60年代のアメリカンポップスに造詣の深い山下達郎大瀧詠一の音楽活動の地ならしとなったと田代は語っています。

 岩手県に生まれ育ち、三沢基地等からのFEN(現AFN)でアメリカのヒットチャートを聴いて育った大瀧(1948年生まれ)よりも下の世代であり、占領期をまったく知らない田代もまた、不良たちの好むアメリカ由来のソウル・ミュージックにあわせてステップを踏んでいました。そのダンスにしても、当時のメディア環境においては、レコードジャケットなどの写真から踊り方を想像するか、新宿や六本木などのディスコなどで見様見真似するしか手段はありません。時あたかも、日本の基地から多くの米兵たちが出陣・帰還していたベトナム戦争期。その後、1970年代から80年代にかけて、往年のアメリカン・ポップミュージックが再評価される流れの中で、田代たちは人気者となっていきました。

 今の大学生にとっては、鈴木雅之と聞いても紅白に出てくる大御所歌手の一人でしょうし、田代まさしは知らないか、知っていたとしても、薬物依存などによってトラブルを繰り返したこともあり、ネット上でおもちゃとなっている人、くらいの認識でしょう。昭和からの芸能人という括りの中で、まったくドメスティックな存在として受けとめられているのかもしれません。

 しかし、その出発点までを遡っていくと、アメリカの音楽やファッションとの深い関わりがありました。それらをカッコいいものとして受容した、当時の若者たちの感受性はどこに由来するのか。そんな問題系について、おいおい考えていきたいと思います。

 

 

FEN話のついでに。ハム(アマチュア無線家)の方だろうか? さらにその奥に小さく見える(実際は120m)のはラジオ塔。電波で音声とばすといえば、スマホしか思い浮かばない(カーオーディオもスマホBluetoothな)現在。

 

ラジオが聴ける機械ってあるじゃないですかぁ - 60歳からの自分いじり

 

初期の電リク(ラジオ番組に電話をかけ、曲などをリクエストして、流してもらう)は、電報だったという話も、どこかで聞いたが…。就職活動の面接の呼び出しが電報だった世代としては…。

 

NHKプラスで下山事件関連を見る。かもめんたる児玉誉士夫

恵送御礼&変態帰路

 

永井良和先生よりのご恵送。

クレッシーの『タクシーダンス・ホール』からの展開が、こうして営々と続いていることに改めて感動。今ここで誰かがまとめ、書きとめておかないと、という渾身の書。

 

戦後編もあるということだろうか。戦後のダンスブームも、いよいよ誰かが書きとめておかないと…という段階だと思うので、続編を期待、期待。

 

明日は大学院と学部×2の入学式。

 

先週、堺の実家からの帰路について。
その前は初芝三国ヶ丘・三国ケ丘→鳳→東羽衣・羽衣→なんば、と帰ったので、さらに別ルート探索ということで初芝住吉東神ノ木天王寺駅前天王寺→梅田、と変態帰路。

 

 

南海高野線の上を走る路面電車…。駅は階段の上。

 

 

カップルシート?

 

 

浜寺公園方面へ。えっちら坂を上ってくる。

 

阪神やJRは試したことあるので、あとは汐見橋線を使う、河内長野に出て近鉄阿倍野橋へ、さらにはモノレール使うとか、南港ポートライナー等を使うとか、果てはいまざとライナー使うとか…

まぁ毎日のことではないので、ちょっとのカネと時間の浪費を楽しみたい。

 

毎日新聞取材班『SNS暴力』毎日新聞出版、2020

玉川博章『「同人文化」の社会学』七月社、2024

インカレ博論企画、戸川純&恵送御礼

zerotokyo.jp

 

今日は関西社会学会の企画で、関学梅田キャンパスへ。その後、Zoom面談やZoom飲み会など。

 

話かわって、上記リンクは、ゼミ卒業生たちがプレゼンツのイベントが、4月1日にあるようなので告知。

COSMIC LAB -

成功祈ります。戸川純

 

そして恵送御礼。


先日の『はじまりのテレビ』といい、放送史の再検討はもろもろ進んでおり、技術史サイドからのアプローチもまだまだ掘り起こされるべき点は多々あろう。

 

技術史、産業史・経済史、文化史、社会史、政治史などなど、放送史研究にはさまざまな切り口はありうるだろうが、メディア史研究の根底には「要は、人はより便利・安価にアクセスできて、より楽しめるorためになるコンテンツを求めて日々生きている」ことが基本的な前提としてあるべきな気がして仕方ない。

先週の東京行4

 

久しぶりの国会図書館。昔のビニール袋時代しか知らないので、ちょっと感慨。それにしても国会・官邸周辺、歩哨が多い。

 

 

国会図書館も時世を反映。推し活コーナーを設けていた。
義太夫をアイドル・ファンダム文化の淵源に位置付けるのは正しいような気がする。

 

 

今日はZoom面談、会議、Zoom研究会。

 

昨日、実家に帰って母と話していると、近くに住む従姉妹がこの前遊びに来た際、「この子、コウジ君とこのゼミ生なんやてなぁ」と騒いでいたとのこと。

The Spirit of KWANSEI|関西学院後援会

推してあげてください。